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2019年7月29日 (月)

日野資光1

 待賢門院判官代と別当を務めた日野資光について確認する。石見国と出雲国が女院分国となった際の中心人物であった。長承三年に五〇才で死亡しており、永保三年(一〇八三)の生まれで、同母兄実光とは六才差、宗光とは三才差で、母は肥後国鹿子木庄の庄園領主として有名な藤原実政卿の娘であった。
 実政の失脚により日野氏惣領となった有信の三男として生まれた資光は、二一才(没年の年齢によるが、『中右記』の当該記事には二九才とあるが、それでは実光の兄となるため、以下は没年に基づく年齢で記述)であった康和五年(一一〇三)一二月二九日には二才年上の藤原尹通とともに秀才給料宣旨を受けている。稽古の勤が殊に抽賞されたもので、資光は勧学院学頭でもあった。
 天永三年(一一一二)一二月二〇日には白河院から昇殿を許され、永久二年(一一一四)五月一六日には「秀才判官」とみえ、検非違使の宣旨をうけていたことがわかる。六月一日には出雲国司藤原顕頼より杵築社に修理が必要となり、再度仮殿を作り、御神躰を渡御する日時を決めてもらいたいとの申請に対して回答がなされている。
 翌三年正月一四日には左衛門尉資光が鳥羽天皇の蔵人に補任されている。次いで永久六年一月六日には三六才で叙爵し、同二六日には女御から立后された璋子の中宮少進に補任された。その際に権大進に補任されたのが二八才の藤原清隆と二五才の藤原顕頼であった。太夫には白河院近臣の大納言藤原宗通、権太夫と権亮には璋子の同母兄西園寺(こう呼ばれるのは後のことだが、便宜上使用)通季と徳大寺(同前)実能、亮には顕頼の父で夜の関白と呼ばれた頭弁顕隆、大進はその弟重隆で、資光と並ぶもう一人の少進には藤原顕季の孫顕時(顕輔子)が起用されていた。

 

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