koewokiku(HPへ)

« 弥富名の相伝次第1 | トップページ | 弥富名の相伝次第3 »

2019年7月 6日 (土)

弥富名の相伝次第2

 九月一八日には、直冬方の大将仁科盛宗が石見凶徒退治のため三隅に着陣したことを伝えるとともに、近日中に誉田に発向するとして軍勢催促状を内田氏惣領三郎致世宛に出している。翌正平九年正月二〇日には直冬が致世の忠節を賞している。正平八年一二月二七日には仁科盛宗が、貞松名を致世に沙汰付けるよう、三隅信性と周布兼氏に命じている。周布氏の庶子である内兼成が貞松名に対する支配を主張して抵抗したためである。
 内田氏惣領致景は遠江国で幕府方として活動していたが、石見国では庶子致員が反幕府方となった。幕府は豊田城を攻撃・落城させるとともに、内田氏領豊田郷と貞松名を闕所としてした。これに対して致景が石見国に入り、幕府方として軍功を上げる一方で、自分の所領であることを主張して認められた。ところが、観応の擾乱で幕府が分裂すると、石見国内では反幕府方が優位に立ち、正平七年三月には内兼成が貞松名は叔父内田致員から譲られたものであるとして安堵を求める申状を提出している。
 反幕府方優位のもと兼成は貞松名を実効支配していたが、内田致景の嫡子致世が催促に応じて反幕府方となった。直冬方は本主である致世の支配を認め、兼成は安堵を取り消されたため対立が起こった。

 

« 弥富名の相伝次第1 | トップページ | 弥富名の相伝次第3 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 弥富名の相伝次第1 | トップページ | 弥富名の相伝次第3 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ