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2019年7月31日 (水)

藤原家長について

 佐々木紀一氏「池禅尼の没年」を読んで驚いたことは、保元の乱で崇德方となり没落したとされた家成の異母兄家長について、『保元物語』の記述は誤りである可能性が大きくなったことである。ブログ「高階敦政の投身自殺」の中で、「家成以外の兄弟は崇德に近侍していた」との元木氏の見解に疑問を呈し、乱直前までの家長の状況は後白河院方となっても不思議ではなかったことを述べた。佐伯智広氏「鳥羽院政期王家と皇位継承」(初出二〇一二年)の中でも、家成以外の家保の子は崇德院との関係が深いとし、その例として家長が保元の乱に際し、腹巻きを着用して崇德院のもとに伺候したことと、崇德院が讃岐に配流される際に、弟保成が車を提供した点を述べている。
 ただし『兵範記』では白川殿の崇德院方の中に家長はみえず(七月一〇日条)、乱後に罪名を下された中にもみえない(七月二七日条)。崇德院の側近日野資憲も、『保元物語』の中にはみえても、『兵範記』には登場しない点については前述のとおりである。
 『保元物語』諸本には乱後、家長が他の崇德院への與力者とともに法体(能登守入道家長)となって出頭したこと(半井本)や、拷問され(宝徳本)、陸奥に流されたこと(京図本)まで記しているものがあるという。一方、佐々木氏の論文では、家長(当時は能登守)の極官は「刑部卿」で、出家は死亡直前であるという『物語』と矛盾した記述がある(『尊卑分脈』『暇服』)とする。保元の乱後も昇進しているのである。家成の弟保成にしても、保元三年一二月の二条天皇即位の儀式(「二条天皇即位記」「保元三年番記録」、佐々木氏が出典とした史料については編纂所データベースの稿本ですでに閲覧していた)で役割を果たしており、保元の乱で処罰された可能性はない。
 佐々木氏の論文を収録した研究報告は二〇〇九年三月に発刊されている。佐伯氏の見解は関係する史料と研究の確認を怠ったまま記されたことになる。

 

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