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2019年7月 9日 (火)

丸毛兼幸について2

 是阿の母は阿忍の娘であり兼幸に安富郷を譲った祖母ではない。となると、父兼直の母が連阿ということになる。連阿は兼久・幸寿の子であり、兼直ではなくその子兼幸に安富郷を譲るとともに、「幸寿」にちなんで「兼幸」を名乗らせた。是阿もまた所領を子ではなく孫兼里に、兼幸は孫直世に譲ったことになる。
 丸毛一分地頭で安富郷地頭であった兼幸は南朝方となった周布氏ではなく、幕府方となった益田氏や宇地氏と行動を共にした。観応の擾乱期になって益田氏・宇地氏と丸毛(安富)兼幸は反幕府方に転じ、貞治三年に益田氏が三隅氏とともに幕府方となった際にも行動を共にした。その点で気になるのが正平一七年一二月晦日某(足利直冬)宛行状であり、兼幸領長野庄角井村が三隅石見判官直連に与えられている。足利直冬は一一月から一二月に石見国人に軍勢催促をして備後国攻撃を行っていた。兼幸が参陣しなかったための没収であった。正平一八年二月一八日兼幸譲状を見る限り、兼幸が幕府方となるまでには至っていなかったが、正平一〇年譲状での孫子助九郎直世への譲与を、子九郎入道智弘への譲与に変更している。足利直冬との密接な関係がうかがわれる直世への譲与を改めており、幕府方となるのは時間の問題だった。
 備後国出兵の間隙を突く形で、幕府方の石見国内での動きが復活する。貞治二年正月には守護荒河氏の関係者が君谷祐忠に安須奈庄を沙汰付けている。九月一〇日までに直冬方は備後国から没落したことを幕府が小早川春平に伝えている。
 これに先立つ貞治二年七月には益田兼見が北朝年号を記した譲状を作成し、一二月一四日には、幕府が高橋氏によって押領されていた出羽上下郷を出羽祐忠に沙汰付るよう守護荒河詮頼に命じている。三隅氏が幕府から本領を安堵された貞治三年八月には、周布兼氏や他の国人に対しても将軍や幕府方から軍勢催促状が出されている。その後の経過はすでに述べた通りである。

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