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2019年7月18日 (木)

美福門院の関係者3

 信盛は久安三年(一一四七)正月の除目で隠岐守に補任された。叙爵しており蔵人であった。母や子についての情報はないが俊盛の同母弟である可能性は高い。兄俊盛同様、一〇代後半での国守初任であったと思われる。翌年閏六月に従五位上に叙位され、美福門院の殿上人であった。仁平二年(一一五二)二月に上野守に遷任し、翌三年正月に美福門院御給で正五位下に進んだが、三月一三日に病死した。二〇代前半であったと思われる。
 その後任藤原重家は美福門院の甥(異母兄顕輔の子)で、藤原親忠の後任として久安四年一一月に二一才で補任された摂津守からの遷任であった。前任の摂津国と上野国もまた女院分国であった。女院の死後は二条天皇派となったが、そのため応保二年に後白河により解官されている。
 久安四年には女院の甥(長輔子)で一五才の実清が女院分国越前の国守に、同六年には同母弟実明(母は清隆娘)が女院分国周防の国守に補任されている。両者の同母兄隆輔は康治元年(一一四二)に一四才で従五位下蔵人に補任され、左兵衛権佐、中務大輔を歴任したが、保元三年に三〇才で実明の後任の周防守に補任されている。
 仁平二年(一一五二)一二月三〇日には、親忠の娘美福門院加賀と藤原為経との間に産まれた一一才の隆信が越前守に補任されたが、翌年には親忠が病気のため辞職した若狭守の後任に補任されている。俊盛の子としては、嫡子季能が保元三年に六才で叙爵し、二年後の平治二年に八才で越前守、次いで丹後守に補任された。

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