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2019年7月18日 (木)

美福門院の関係者2

 話を季行に戻すと、当初は父が待賢門院別当であったこともあり待賢門院との関係が強かったが、その妻(藤原宗能娘、母は長実の娘ヵ)が美福門院の子(姝子内親王)の乳母となったため、美福門院との関係が強くなる。康治二年一月三日には正五位下に、久安五年三月二〇日には正四位下に、皇后宮(得子)御給で叙せられている。同年八月三日には院号宣下されて美福門院となり、一〇月二日の殿上始では院司に補任され、以後、女院御所への訪問者への取次を行っている。
 仁平四年八月一八日に一四才となった姫君が親王宣下を受けて姝子内親王となると、勅別当藤原成通のもとで家司に補任された。次いで保元の乱後に保元四年二月二一日に姝子内親王が二条天皇の中宮となると、季行は中宮亮となった。
 季行と俊盛はともに当初は待賢門院との関係を有していたが、その後、美福門院との関係を強めている。季行は敦兼の子で、俊盛は季行の姉妹が母である。敦兼の没年は不明だが、保延四年に六〇才で出家するまでは確認できる。長実の嫡子顕盛は娘得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになる直前に死亡し、弟長親と時通は得子が叡子内親王を産んだ直後に備後守と伯耆守を退任し、その後、任官することはなかった。
 俊盛、親忠に続いて美福門院分国の国守に起用されたのは俊盛の弟信盛である。親忠の子親弘が仁平二年(一一五二)に相模守に補任された際に「元上総守」とあるが(『山槐記除目部類』)、康治元年一〇月見任の藤原季兼(季行の同母兄)、久安五年三月に季兼が備後守に遷任した後任である源資賢がおり、親弘が補任されたのは受領以外(上総親王任国で介が受領)であった(上野介)と思われる。

 

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