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2019年7月 1日 (月)

七月の近況

 はやくも二〇一九年も半分がすぎた。ひと月ほど前から左膝の痛みがあり、通院しているが、改善のきざしはない。医者から年齢によるものと言われればそれ以上言いようがない。運動量が減ることによるマイナスが少なければ良いが。
 今年の初めの新出文書に続いて、益田氏と長野庄に関する新系図の公開により、これまでの考え方を改めなければならない点が出てきた。刑事事件の裁判でも、無罪でありながら証拠資料の不足から、合理的に判断すると有罪となる事例が、新証拠で一変に無罪となることがあるのと一緒である。さすがにアリバイ成立というほどの決定的資料はなかなか出ないが。
 以前から石見国内の守護領はどこかと思っていたが、西田氏により東部の稲用の存在があきらかとされた。西部の吉賀郡には南北朝期に大内氏の守護領があったのは確認できる。鎌倉期にさかのぼる可能性も大きいが、一方では吉賀郡と美濃郡に両属する形となった豊田郷も有力な候補と考えていた。
 新系図によると、物部季遠の子光安領は嫡子兼光が継承し、庶子兼盛は、寿永元年には角井下司国高の子で豊田郷下司であったと思われる藤原国直の聟となっていた。二人の兄弟とも「兼」の字を付けており、藤原雅国・国保父子の後任の石見守源季兼との関係がうかがわれるが、兼盛が甥の所領に介入した背景として考えられるのは、義父国直の所帯が没収され、それが守護領となったことではないか。国直の聟兼盛は豊田郷地頭佐々木定綱を背景に、甥光平領に介入し、「字白上六郎」と記されるように、白上村の一部を手に入れたのは確実であろう。しかし、定綱の嫡子広綱が承久京方で没落したことは。兼盛にも影響を与えたと思われる。
 出雲大社領をみればわかるが、下司といっても基本的には一年契約であり、翌年により有利な条件で下司を希望する者があれば、領家・預所による新下司の補任は普通のことである。領家との関係、さらには守護との関係、治承・寿永の乱、承久の乱と様々な外部的要因が長野庄下司達の動向に大きな影響を与えたのは確かであろう。ただ、久留島氏が述べられたような影響があった可能性もある。また、久留島氏は益田氏が関係史料をよく残したとされたが、肝心の益田氏初代の国兼と、一三世紀半ば過ぎに所領を没収された兼胤ついては、三隅氏系図や鈴木氏の系図以外ではその情報は抹殺されている。以前、松江市史講座では「残されなかった史料から考える」との題名で話をした。矛盾する題名だと思う人があるかもしれないが、それができないひとは歴史を論ずることはできない。
 豊田郷が守護佐々木広綱領なら、後任の地頭も守護ではないかとの疑問もあろうが、守護が討伐され所帯を没収される場合、勲功をあげた武士がいる場合は、結果として守護領は減少する。例としては梶原景時が討伐された後の播磨国守護領である。景時領は、後任の守護だけでなくその討伐に活躍した駿河国武士にも与えられた。

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