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2019年7月28日 (日)

平治の乱と待賢門院流1

 保延元年三月四日、鳥羽院と待賢門院の前で、女院右方(楽や舞で使用される集団名、左方もある)人々が鶏を持ち込み、闘鶏を行った。鳥羽院から賞する言葉が、源師仲にかけられた。女院右方の人々で具体的に名前がみえるのは、経宗・出雲守を含めた三人である。
 師仲は『長秋記』の記主で女院別当であった師時の子で二〇才である。一六才の経宗は藤原経実の子であるが、女院の姉妹を母としている。一三才の時に父が死亡したため、閑院流の庇護の下にあったとされる。三才年上の姉懿子は輔仁親王の子源有仁の養女となり、雅仁(後白河)親王の妃として守仁(二条)を産んでいる。
 出雲守は女院の勅別当源能俊の子光隆で、晩年の子であったがゆえに、藤原基隆の養子に入り、藤原光隆として出雲守に補任された。この時点で一四才である。三人とも女院に仕える若手貴族であったが、光隆のみは女院が死亡した久安元年に二二才で死亡した。
 二条天皇の外戚として二条天皇派の中心となった経宗(一一一九年生)であるが、藤原清隆の娘を妻とするだけでなく、清隆の子通成を養子としている。清隆娘との間に嫡子頼実が生まれたのは経宗三七才の時である。これに対して養子通成は光隆(一一二七年生)・定隆(一一三五年生)の同母弟であり、経宗との年齢差は二〇才程度であろう。
 平治の乱の首謀者藤原信頼は父忠隆の死後は、母(顕頼の娘)の兄弟である藤原光頼の庇護下にあったと思われ、その妹を妻としている。光頼と一才年下の弟惟方、一二才若い成頼の母は藤原俊忠の娘であった。俊忠の子俊成は姉の夫である藤原顕頼の猶子となり、顕広と名乗り、後に実家の御子左家に戻って俊成と改名した。
 俊忠の長子と思われる忠成の子が頼朝と朝廷を仲介した光能である。俊忠には徳大寺公能妻となった娘や藤原光房(為隆子)や藤原知通(尹通子)、平時信の妻となった娘(滋子の母)もいた。

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