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2019年7月 6日 (土)

弥富名の相伝次第3

 話を弥富名に戻すと、弥富名は三隅兼信の娘阿忍領であったが、父兼信ではなく夫兼長領を継承したものであった。永安氏初代兼祐は阿忍の弟である。一方、疋見・津毛別符や小石見郷をめぐって益田氏と三隅氏の間では対立があった。本来は益田氏領であったが、建武二年に益田庄とこの三所領が益田氏惣領に本領安堵(失った所領を回復)されたが、実際に益田氏惣領が支配したのは益田本郷のみであり、残り三ヵ所は三隅氏領となった。貞治六年三月五日足利義詮御判御教書(益田實氏所蔵)によると、貞治三年八月二一日に三隅氏の本領だとして、納田郷(三隅郷)・木束郷とともに津毛・疋見別符が安堵されている。
 吉川経兼が小弥富に加えて弥富名の安堵を申請した背景として、反幕府方が優位に立ったことがある。また益田氏と三隅氏の所領をめぐる対立に関連して注目されるのが、貞治五年五月六日益田兼見文書受取状である。その最初に、代々の御下文案文が紛失したとして足利直冬の裏判を得た紛失状が記されている。三隅氏が所持していたが、益田氏と三隅氏が幕府方に復帰する際に調整が行われた結果、益田氏は疋見・津毛について譲歩し、その条件として、将来の紛争の火種となりなかねない直冬裏判の紛失状を三隅氏から得たのであろう。その中には益田氏領である弥富名も含まれていたと思われる。益田氏からすれば容認できない文書であろうが、三隅氏は建武政権下や直冬方では益田氏より優位な立場にあり、益田氏も反幕府方である時期には妥協せざるを得なかった。それが故に、兼世・兼利父子は幕府方に戻ろうとしたのである。

 

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