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2019年7月15日 (月)

藤原光能についての補足2

 野口氏は頼朝を囲繞した人々の人脈のかなりの部分が院近臣藤原光能に集約されるとするが、その見解の前提となったのは上横手雅敬氏の研究であった。上横手氏は後白河院と光能と頼朝を結んだのが神護寺復興を担った文覚であり、その背後には院の同母姉上西門院がいたとする。
 話を光能に戻すと、光能と後白河院との関係は長寛二年一一月一六日に「院未給」として、光能が叙爵から一八年後にようやく従五位上に叙せられた時点から始まっていた。前の記事では仁安二年正月の記事で「院司」としてみえることに注目したが、補足したように、その前年の永万二年一月一〇日の御白河院庁下文の署判者(判官代)として「下野守藤原朝臣」がみえている。後白河が光能の能力を買って叙位を行い、続いて待賢門院女房関屋の兄弟藤原懐遠が下野守を辞任して光能の下野守補任が実現した。その後は急速に昇進を重ね、知行国主、蔵人頭、参議となり、院庁下文にも別当として署判するようになっている。
  ただ、これは後白河の意向であり、光能が後白河をどのように思っていたかは別の問題である。安元三年に崇德の側近であった藤原教長の働きかけを承けて、蔵人頭光能がその除霊(後白河は熱心ではなかった)のため動いたこと、光能の後家(足立遠元の娘)が崇德院御影堂の領家であったことについてはすでに述べたとおりである。

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