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2019年7月15日 (月)

藤原光能についての補足1

 安田元久氏論集到着後、野口実氏「流人の周辺」を読んだ時点では特に補足の必要を感じなかったが、若干補足したい。
 野口氏は頼朝関係者をその背景毎に述べているが、「その他」のトップバッターとしてとして武蔵国泉勝田を勧賞として頼朝から与えられた毛呂季綱と、頼朝の知行国となった豊後の国守に推挙されたその父季光を挙げている。季光は頼朝との間に由緒があり、門葉に準ずる存在であった。野口氏は権中納言兼大宰権帥であった季仲の曾孫季光が何を理由に武蔵国に土着したかを含めてその背景をご存じなかったようだが、それは以下の通りである。
 季仲は宇佐八幡とのトラブルで解任された日野実政のように、延暦寺末寺の濫行を鎮圧した際に日吉社神人を殺害し、延暦寺の訴えを受けて長治二年一二月二九日に解任、配流された。余従六人も遠流とされた(『中右記』)。季仲は一旦は周防国への配流とされたが、翌嘉承元年には遠流として常陸国に流され(この時に高階泰仲娘を母とする刑部少輔懐季と少納言実明が解官された)、元永二年六月一日に配流地で死亡している。実明は間もなく許され、天仁元年一一月二日には「大宮亮実明」、天永元年三月三日には殿上人としてみえ、九月八日の時点では四位であった。大治三年九月一八日に頓滅した際の記事(『中右記目録』)にも「前大宮亮実明」と記されている。
 季仲の子、或いは実明の子ともされる仲光は常陸国に流された季仲との関係で、関東に土着したのではないか。実明の娘は待賢門院女房となっている。また、実明の姉妹は源行宗の室となっているが、行宗の養女が崇德天皇との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局であった。季光が頼朝の門葉に准らえられるとは崇德天皇・兵衛佐局との関係からであろう。なお、季仲の従姉妹(父経季の兄弟経平の娘)は閑院流藤原実季との間に公実・保実・鳥羽院の母を産んでおり、待賢門院との関係も深かった。さらに、兵衛佐局の実父信縁は季仲の兄弟(増覚と季実の二説あり)の子であった。

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