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2019年7月18日 (木)

美福門院の関係者1

 その妻が美福門院の娘姝子内親王の乳母となった藤原季行(1114-1162)は北家道綱流敦兼(1079-1138-)の子で母は顕季の娘である。同母兄に季兼がおり、その名前からも母方の祖父顕季(1055-1123)との関係がうかがわれる。その姉妹には藤原成通室、藤原顕盛室がいる。それぞれ白河院近臣宗通と長実の子男である。
 顕盛(1100-1134)は長実(1075-1133)の嫡子で白河院近臣であったが、父から大治二年正月に譲られた修理大夫を、同五年四月二六日に鳥羽院により更迭され、その後も公卿となることなく、長承三年(一一三四)一月二六日に三五才で死亡した。四才下の同母弟長輔は保安四年正月に丹後守を退任後、同年九月には崇德天皇の昇殿を認められたが、その後は天治三年正月に従四位上、長承三年二月一七日に正四位下に鳥羽院分で叙されたのみで、任官することなく散位に留まっていた。また、得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになった長承三年八月の時点では近習(昇殿の意味か)を止められていた(『長秋記』)。長輔は崇德朝末期の保延六年一一月に昇殿を許され、翌七年四月に、妻の父藤原清隆が内蔵頭を辞任する替わりに左馬頭に補任された。
 顕盛の死亡時に子俊盛(1120-)は一五才で、同年正月に叙爵したばかりであった。恂子(後の統子)内親王給によるもので、父顕盛が待賢門院別当であったことによるものである。
 俊盛は一七才となった保延二年(一一三六)正月二二日に備後守に補任されたが、五月一〇日には丹後守に遷任した。三才年上の叔母得子(1117-1160)が鳥羽院の寵愛を受けて叡子内親王を産み、同年四月に従三位に叙せられるたことによるものであろう。一一月には得子の乳母伯耆の夫藤原親忠(1095-1153)が安房守に補任されており、丹後国と安房国が得子の分国とされた。
 得子の乳母は、「伯耆」の名前から、保安元年一一月二五日から死亡する長承二年まで子顕盛、長親、時通を国守として伯耆国知行国主であった長実の娘でああり、得子の異母姉であったと思われる。親忠の嫡子親弘は得子と同年の生まれと推定されており、伯耆が得子の乳母に起用されたのだろう。

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