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2019年7月22日 (月)

鎌倉末期の石見国司補足

 永仁年間の石見守「光世」について、堀川光世に比定し、知行国主は兄弟の光泰ではないかとしたが、当時は堀川宰相と呼ばれ、正安三年正月まで伊勢国知行国主であり、石見国主ではありえなかった。永仁五年(一二九七)閏一〇月二一日六波羅御教書について質問されたのを受けて再度調べ直してみた。ここで永安保地頭永安氏(ただし宛所は削除されている)による石見府中所役等の對捍と検断の抑留を訴えている永安保雑掌実秀は、三条三位中将家御文と請文(地頭によるものか)を一緒に提出している。
 この三条三位中将であるが、『鎌倉遺文』では三条実躬(『実躬卿記』で知られる)に比定しているが、実躬が従三位に叙せられるのは翌永仁六年であり、再検討が必要である。とりあえず『公卿補任』の永仁五年分に登場する人物から「実」が付く人物について調べてみたが、該当する人物はいなかった。そこで弘安~正応年間の石見国知行国主三条実重の関係者で該当する人物がいないか確認したところ、嫡子公茂が条件を満たした。
 出羽郷の問題で述べたように、正応四年(一二九一)に知行国主は三条実重から二条兼基に交替している。そして、「国司一覧」によると『実任卿記』正安三年(一三〇一)二月一一日条に「石見前司光世」がみえるとする。これを堀川光世に比定したが、その時期の知行国主が三条公茂(茂と重は音が同じ)であった可能性が高くなった。そこで、『実任卿記』について調べると、『継塵記』とも呼ばれ、三条公種の子実任の日記で、『続群書類従』にも収録されている。父は実躬の父公貫の兄弟である。
 ネットで検索すると、国文学研究資料館の画像データ「継塵記抄出」が公開されており、正安三年二月一一日条を確認できた。一月二二日に後二条天皇が即位し、父後宇多上皇による院政が開始されたが、後宇多院の初御幸が二月一一日に行われるため、関係者が準備に追われている。当時三八才で正四位下左少将兼播磨守(父実種は右中将で公卿にはなれず)であった実任(七五才まで生きて権中納言になる)のもとに、三条前内府(実重)からの文書(飛騨前司頼房の奉書ヵ)が届いた。その中で実重の子三位中将(公茂)の供奉について述べられている。実任が返事をしたところ、すぐに実重側から使者の僧二名がやって来た。文意が不明な点もあるが、公茂は午刻に束帯で諸大夫一人(石見前司光世)と小随身四人、雑色長一人を伴い参り、実任も参院したことが記されている。
 石見前司光世が三条実重・公茂父子に仕える諸大夫であり、公茂が知行国主であった石見国の国守を務めていたことは明らかであろう。

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