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2019年7月23日 (火)

日野資憲4

 仁平二年一一月一五日には「前勘解由次官」とみえ、資憲は散位となっていたが、一方では崇德院別当の中心であり、この時点では、病弱な近衛天皇に後継者が誕生する可能性は低くなり、鳥羽院の没後、崇德院が院政を行う可能性は、かなり高かった。その状況が変化したのは久寿二年七月二三日に近衛天皇が一七才で病死したことであった。子はおらず後継者は未定であったが、翌日には鳥羽院の第四皇子雅仁(後白河)の即位が決定された。ただし、通常ならば同時に皇太子とした上での即位であったが、今回は、雅仁の子守仁の代わりに父を天皇とするという違例のものであり、雅仁の立太子は行わなかった。
 その際、忠通の選考により、待賢門院女房から崇德院女房に転じていた資憲の妻阿波と前斎院統子内親王の女房小備中(夫源光隆は彼女の父高階家行の補佐で、待賢門院の分国であった出雲守と安芸守を務める)が後白河天皇の内侍とされ、翌久寿三年正月には、資憲の子俊光と阿波の弟(資光子)盛業が後白河天皇の蔵人に起用された。そのため、『保元物語』では崇德院が田中御所から遷った白河殿に集まった関係者として「藤原助(資)憲」を記しているが、実際には資憲は戦闘が始まる直前に出家し、処罰を受けることはなかった。
 出家した資憲も、揖屋庄の四至牓示石が国衙により抜き取られた際には庄官を率いて、再度打ち直しているように、その活動は続いていた。領家であった揖屋庄については、平教盛の妻となった娘が産んだ教子とその夫藤原範光が継承していった。

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