koewokiku(HPへ)

« 2019年6月 | トップページ | 2019年8月 »

2019年7月

2019年7月31日 (水)

藤原家長について

 佐々木紀一氏「池禅尼の没年」を読んで驚いたことは、保元の乱で崇德方となり没落したとされた家成の異母兄家長について、『保元物語』の記述は誤りである可能性が大きくなったことである。ブログ「高階敦政の投身自殺」の中で、「家成以外の兄弟は崇德に近侍していた」との元木氏の見解に疑問を呈し、乱直前までの家長の状況は後白河院方となっても不思議ではなかったことを述べた。佐伯智広氏「鳥羽院政期王家と皇位継承」(初出二〇一二年)の中でも、家成以外の家保の子は崇德院との関係が深いとし、その例として家長が保元の乱に際し、腹巻きを着用して崇德院のもとに伺候したことと、崇德院が讃岐に配流される際に、弟保成が車を提供した点を述べている。
 ただし『兵範記』では白川殿の崇德院方の中に家長はみえず(七月一〇日条)、乱後に罪名を下された中にもみえない(七月二七日条)。崇德院の側近日野資憲も、『保元物語』の中にはみえても、『兵範記』には登場しない点については前述のとおりである。
 『保元物語』諸本には乱後、家長が他の崇德院への與力者とともに法体(能登守入道家長)となって出頭したこと(半井本)や、拷問され(宝徳本)、陸奥に流されたこと(京図本)まで記しているものがあるという。一方、佐々木氏の論文では、家長(当時は能登守)の極官は「刑部卿」で、出家は死亡直前であるという『物語』と矛盾した記述がある(『尊卑分脈』『暇服』)とする。保元の乱後も昇進しているのである。家成の弟保成にしても、保元三年一二月の二条天皇即位の儀式(「二条天皇即位記」「保元三年番記録」、佐々木氏が出典とした史料については編纂所データベースの稿本ですでに閲覧していた)で役割を果たしており、保元の乱で処罰された可能性はない。
 佐々木氏の論文を収録した研究報告は二〇〇九年三月に発刊されている。佐伯氏の見解は関係する史料と研究の確認を怠ったまま記されたことになる。

 

2019年7月29日 (月)

日野資光3

 阿波は従兄弟である日野資憲との間に俊光を産んでいるが、久寿二年(一一五五)一二月一日に「尚福修理亮」として初見し、翌年一月七日には、「春宮非蔵人大学助」俊光が、資光の子盛業(文章得業生・新院蔵人)とともに後白河天皇の蔵人に補任された。次いで同二六日の除目で俊光は式部大丞(正六位下相当)に補任されている。
 盛業は久安六年(一一五〇)一二月三〇日に二一才の藤原範季とともに学問料使給の宣旨を受けている。盛業も範季と同様二〇代前半であろう。長承三年(一一三四)に父資光が死亡した時点では一〇才未満であろうか。なお範季は後に、資憲の娘と平教盛(範季より二才年上)との間に産まれた教子を妻としている。以上により間接的ではあるが、資憲と阿波の結婚と子俊光の誕生は資光が死亡した長承元年二月一七日の前後の時期であろう。
 中宮璋子の時代と待賢門院庁初期は藤原清隆、藤原顕頼と日野資光が中心であったが、大治年間に入ると、別当持明院通基が中心となり、そのもとで判官代となったのが池禅尼の弟藤原宗長であった。宗長は女院分国和泉国と石見国の国守を務めたが、女院が死亡する前年に、高陽院分国の国守であった資憲の後任として下野守となった。宗長は待賢門院の死後は高陽院や摂関家との関係を深めていく。
 資憲が退位後の崇德院庁の中心となったのに対して、持明院通基は同母妹前斎院統子内親王家の中心となり、久安四年一〇月一〇日に通基が五九才で死亡すると、子の通重(ただし翌年に死亡)と基家が統子内親王家の管理にあたった。保元の乱後に統子が院号宣下を受けて上西門院となった後も、基家とその子が女院分国の国守を務めている。

日野資光2

 資光は顕仁(崇德、元永二年五月二八日生)以下の璋子の子が誕生する前後の儀式では、清隆、顕頼、範隆(清隆同母弟)とともに饗の負担を担当するとともに、大学頭として誕生した子の教育を行っている。そして天治元年(一一二四)一〇月二六日に璋子が院号宣下により待賢門院となると、源能俊(権大納言)、通季(権中納言)、顕隆(権中納言)、藤原家保(顕季子、内蔵頭)、藤原忠宗(右近中将)、清隆という六人の別当のもとで、資光は平実親(その子が範家)、高階通憲(信西入道)とともに判官代に補任された。その後、天治二年には崇德天皇の蔵人に補任されていることが確認でき、大治二年九月までには正五位下に叙せられ、大治四年二月には昇殿を認められ殿上人となっていた。この間、大治三年一二月日待賢門院牒では別当の末尾ではあるが「大学頭兼式部少輔藤原朝臣」とみえる。
 女院別当と天皇蔵人を兼ねる資光に対して、大治五年正月三日に昇殿を許された一一才の藤原頼長が各所を慶賀のため訪問した際に、女院の取次を務めたのは判官代藤原宗長であった。宗長は宗兼の子で、池禅尼の同母弟と思われる。そして別当として女院庁を取り仕切ったのは持明院通基であった。
 大治五年(一一三〇)一一月二三日に女院の熊野詣でに同行したのは、石見守に補任されて世間を驚かせた侍卜部兼仲、預藤原資盛(大治三年末に石見守から安芸守に遷任)等と五人の女房であった。その中には女院別当源師時の娘、源顕仲の娘、隆重(清隆の叔父)の娘、高階為章の娘とともに資光の娘阿波が含まれていた。

 

日野資光1

 待賢門院判官代と別当を務めた日野資光について確認する。石見国と出雲国が女院分国となった際の中心人物であった。長承三年に五〇才で死亡しており、永保三年(一〇八三)の生まれで、同母兄実光とは六才差、宗光とは三才差で、母は肥後国鹿子木庄の庄園領主として有名な藤原実政卿の娘であった。
 実政の失脚により日野氏惣領となった有信の三男として生まれた資光は、二一才(没年の年齢によるが、『中右記』の当該記事には二九才とあるが、それでは実光の兄となるため、以下は没年に基づく年齢で記述)であった康和五年(一一〇三)一二月二九日には二才年上の藤原尹通とともに秀才給料宣旨を受けている。稽古の勤が殊に抽賞されたもので、資光は勧学院学頭でもあった。
 天永三年(一一一二)一二月二〇日には白河院から昇殿を許され、永久二年(一一一四)五月一六日には「秀才判官」とみえ、検非違使の宣旨をうけていたことがわかる。六月一日には出雲国司藤原顕頼より杵築社に修理が必要となり、再度仮殿を作り、御神躰を渡御する日時を決めてもらいたいとの申請に対して回答がなされている。
 翌三年正月一四日には左衛門尉資光が鳥羽天皇の蔵人に補任されている。次いで永久六年一月六日には三六才で叙爵し、同二六日には女御から立后された璋子の中宮少進に補任された。その際に権大進に補任されたのが二八才の藤原清隆と二五才の藤原顕頼であった。太夫には白河院近臣の大納言藤原宗通、権太夫と権亮には璋子の同母兄西園寺(こう呼ばれるのは後のことだが、便宜上使用)通季と徳大寺(同前)実能、亮には顕頼の父で夜の関白と呼ばれた頭弁顕隆、大進はその弟重隆で、資光と並ぶもう一人の少進には藤原顕季の孫顕時(顕輔子)が起用されていた。

 

2019年7月28日 (日)

活字本兵範記の利用

 たまたま、久寿二年七月二三日に死亡した近衛天皇の葬儀に関する記事で誤植に遭遇してしまい、訂正が必要となった。『兵範記』については、国会図書館デジタルで公開されている史料通覧版を利用するが、保元三年九月までのものに限定されるので、戦後の増補史料大成版を図書館で確認したり、史料編纂所の史料総覧の基礎となる稿本を利用している。
 七月二四日に新天皇後白河が昇殿を許しているが、通覧版で「□□□家長」と翻刻された部分を稿本で確認すると、「□□□」の部分は前の「同少将」実長と同じなので省略されていたようで、それに続く名前は「家明」(家成の子で隆季の同母弟)と読まれていた。家明は備後守兼左近衛少将だった。家長ではなかったので、以前の記事は訂正したい。
 次いで、七月二七日の記事に八月一日の葬儀で迎火を務める一五人の名前が記されている。二七日の記事には先頭に「家長朝臣」とあり、一日の記事では通覧版では「美濃守家長」となっていたが、稿本で確認すると、「美作守家長」と読まれていた。当時の美濃守は家教であり、家長は美作守であった。稿本をみるまでは「美濃守家教」の誤りかと思ったが、結局は鳥羽院の寵臣家成(すでに死亡)の異母兄家長が正解であった。今回は大成版の当該部分は確認していないが、自ら購入した大成版『中右記』(出版されている索引は大成版に基づいている)は戦前の史料通覧版と頁数を含めて同じで、がっかりしたことがあった。これに対して兵範記は、大成版と通覧版は構成に違いがある。また、これとは別に京都大学所蔵の写本の影印版も出版されている。
 すべて確認した上で史料を利用しなければならないが、実際にはそうもいかない。疑問が生じた場合は確認するというのが現実的であろうか。昇殿の「家長」については、年齢が高く、前述の記事でも疑問を持っていたが、ようやく確認出来た。きっかけは『広島県史』古代中世資料編で八月一日の記事をみて、確認したことであった。『広島県史』は既成の活字版を利用したと思われ「美濃守家長」となっており、再確認した次第である。

 

平治の乱と待賢門院流3

 後白河も待賢門院の子であるが、嫡子である兄崇德を排除する形となったため、待賢門院流の人々が支持したのは女院の同母姉の子懿子を母とする守仁=二条天皇であり、女院の娘上西門院を中心として結びつきを維持していた。頼朝が保元三年二月三日に皇后宮(統子内親王)権少進に補任された際の権大進吉田経房(光房子)の母も藤原俊忠の娘であった。待賢門院流の一員であるということのみで行動するわけではないが、平治の乱の関係者の底流に待賢門院流という結び付きがあったことは間違いなかろう。
 平治の乱に参加した藤原成親は崇德天皇の乳母の子である家成を父としたが、その母方の祖父経忠は、待賢門院の同母姉実子を妻としていた。成親の同母弟盛頼は尾張守として頼朝の父義朝の墓の管理に協力しているが、俊忠の子俊成の娘(八条院三条)を妻とし、その間に産まれた娘は盛頼が成親とともに失脚したこともあって祖父俊成の養女となっている。成親の異母兄隆季は高階宗章の娘を母としている。宗章の姉妹が待賢門院女房遠江内侍で、待賢門院女房加賀が宗章(加賀守に在任経験あり)の娘ではないかとされる。隆季の母と同一人物ではないか。隆季が近衛天皇即位後に天皇の行幸に参加しなかったために処分を受けたことは前述のとおり。
 待賢門院流の結びつきの中で、俊忠の子女が重要な役割を果たしている。徳大寺公能と俊忠娘との間に産まれたのが、知行国美作の目代に梶原景時を起用した実定である。野口実氏は景時起用の背景には景時自身が実定との間に和歌を通して関係を有していたと推測したが、そうではなく、頼朝と実定の関係が先行していた。
 保延元年三月四日の女院闘鶏の記事に登場する三人の青年貴族から、以前より予告していた平治の乱と待賢門院流の人々の関係についてまとめてみた。

 

平治の乱と待賢門院流2

 源義朝と藤原清隆の関係についてはすでに述べたとおりである。清隆の嫡子光隆も乱への参加により一旦、解官されたが、間もなく復任を認められた。経宗とならぶ二条天皇派の中心である藤原惟方の妻は藤原知通の娘であるが、惟方の母と知通の妻は姉妹で、藤原俊忠の娘であった。知通は俊忠の子俊定を養子としている。二条天皇の脱出に協力した藤原尹明は知通の子で惟方妻の兄弟である。
 藤原清隆は妻が近衛天皇の乳母となったことにより、蔵人頭を経て参議となり正四位下から越階して正三位に叙せられ、権中納言に補任されたように優遇された。乳母子である光隆も正四位下までは順調に昇叙されたが、そこからは停滞した。それが平治の乱に関与した原因であろう。解官から復任すると、信西入道とその子たちが失脚したことで、公卿となり、父と同様に参議から権中納言に進んだ(ただし、在任期間五ヶ月で辞退している)。
 待賢門院の関係者で、美福門院との関係を強めた人物はそれなりに昇進したが、それ以外の人々は昇進で不利な状況に置かれている。そして保元の乱後には信西入道の子が急速に昇進し要職を占める事態となった。その状況を変えたのが保元・平治の乱であった。
 藤原経宗も清隆の後任として近衛天皇の蔵人頭に補任されたが、その後の昇進は停滞していた。それが予想に反して姉の子守仁の即位を前提として後白河天皇が即位したことで、状況は一転した。保元の乱の直前に権中納言となり、平治の乱の直前には従二位権大納言となっていた。
 源師仲は源師忠の娘(待賢門院女房内侍)を母とし、待賢門院女房右衛門督はその同母姉妹と推定される。師仲は保延五年正月五日に従四位下、同六年正月二〇日に従四位上に叙せられたが、いずれも女院御給であった。次いで康治元年一一月二六日には新院(崇德)御給で正四位下に叙せられているが、その後の昇進は停滞していた。それが、女院の子雅仁が即位したことで、保元の乱の直前には蔵人頭と参議に相次いで補任された。

 

平治の乱と待賢門院流1

 保延元年三月四日、鳥羽院と待賢門院の前で、女院右方(楽や舞で使用される集団名、左方もある)人々が鶏を持ち込み、闘鶏を行った。鳥羽院から賞する言葉が、源師仲にかけられた。女院右方の人々で具体的に名前がみえるのは、経宗・出雲守を含めた三人である。
 師仲は『長秋記』の記主で女院別当であった師時の子で二〇才である。一六才の経宗は藤原経実の子であるが、女院の姉妹を母としている。一三才の時に父が死亡したため、閑院流の庇護の下にあったとされる。三才年上の姉懿子は輔仁親王の子源有仁の養女となり、雅仁(後白河)親王の妃として守仁(二条)を産んでいる。
 出雲守は女院の勅別当源能俊の子光隆で、晩年の子であったがゆえに、藤原基隆の養子に入り、藤原光隆として出雲守に補任された。この時点で一四才である。三人とも女院に仕える若手貴族であったが、光隆のみは女院が死亡した久安元年に二二才で死亡した。
 二条天皇の外戚として二条天皇派の中心となった経宗(一一一九年生)であるが、藤原清隆の娘を妻とするだけでなく、清隆の子通成を養子としている。清隆娘との間に嫡子頼実が生まれたのは経宗三七才の時である。これに対して養子通成は光隆(一一二七年生)・定隆(一一三五年生)の同母弟であり、経宗との年齢差は二〇才程度であろう。
 平治の乱の首謀者藤原信頼は父忠隆の死後は、母(顕頼の娘)の兄弟である藤原光頼の庇護下にあったと思われ、その妹を妻としている。光頼と一才年下の弟惟方、一二才若い成頼の母は藤原俊忠の娘であった。俊忠の子俊成は姉の夫である藤原顕頼の猶子となり、顕広と名乗り、後に実家の御子左家に戻って俊成と改名した。
 俊忠の長子と思われる忠成の子が頼朝と朝廷を仲介した光能である。俊忠には徳大寺公能妻となった娘や藤原光房(為隆子)や藤原知通(尹通子)、平時信の妻となった娘(滋子の母)もいた。

2019年7月23日 (火)

日野資憲4

 仁平二年一一月一五日には「前勘解由次官」とみえ、資憲は散位となっていたが、一方では崇德院別当の中心であり、この時点では、病弱な近衛天皇に後継者が誕生する可能性は低くなり、鳥羽院の没後、崇德院が院政を行う可能性は、かなり高かった。その状況が変化したのは久寿二年七月二三日に近衛天皇が一七才で病死したことであった。子はおらず後継者は未定であったが、翌日には鳥羽院の第四皇子雅仁(後白河)の即位が決定された。ただし、通常ならば同時に皇太子とした上での即位であったが、今回は、雅仁の子守仁の代わりに父を天皇とするという違例のものであり、雅仁の立太子は行わなかった。
 その際、忠通の選考により、待賢門院女房から崇德院女房に転じていた資憲の妻阿波と前斎院統子内親王の女房小備中(夫源光隆は彼女の父高階家行の補佐で、待賢門院の分国であった出雲守と安芸守を務める)が後白河天皇の内侍とされ、翌久寿三年正月には、資憲の子俊光と阿波の弟(資光子)盛業が後白河天皇の蔵人に起用された。そのため、『保元物語』では崇德院が田中御所から遷った白河殿に集まった関係者として「藤原助(資)憲」を記しているが、実際には資憲は戦闘が始まる直前に出家し、処罰を受けることはなかった。
 出家した資憲も、揖屋庄の四至牓示石が国衙により抜き取られた際には庄官を率いて、再度打ち直しているように、その活動は続いていた。領家であった揖屋庄については、平教盛の妻となった娘が産んだ教子とその夫藤原範光が継承していった。

日野資憲3

 資憲辞任の理由は、翌年に資憲が出雲国揖屋庄(社)を崇德院の御願寺成勝寺に寄進していることで判明する。この年八月には待賢門院が死亡し、その御願寺円勝寺や法金剛院の庄園は多くが永治元年末に天皇を退位した崇德院の管理下に入ったと思われる。まさに崇德院庁が本格的にスタートする時期であり、資憲は院庁別当の中心として活動するようになったと思われる。
 久安四年一〇月四日には鳥羽院殿上で高陽院が白河殿(御所)に渡御する雑事の打ち合わせが行われ、鳥羽院と高陽院の関係者が集まっているが、その中に高陽院庁別当の中心である源雅国とともに資憲もみえており、御簾の行事を務めることが決まっている。資憲は高陽院との関係も維持していた。その一方で資憲は新院崇德の御所を訪問する人々の取次を務めており、崇德院庁別当の中心であった。
 久安六年四月二八日には藤原伊通の娘で関白忠通の養女となった呈子に女御宣旨が下されているが、その夜の除目で、資長が右少弁に転任された。二月二七日に皇太后聖子が院号宣下を受け、資長は皇太后宮権大進を止められていた。資長の右少弁補任について、藤原頼長は『台記』の中で、兄資憲を越えたと記している。久安三年五月二一日には両者の父実光が七九才出死亡しており、兄資憲と弟資長のいずれが日野氏惣領となるかと思われていたのが、鳥羽院・近衛天皇に近い資長が後継者となったと思われたのであろう。六月二二日には女御呈子が立后され、資長の同母弟光盛が中宮権大進に補任されている。

日野資憲2

 長承二年六月一九日に資憲が院の使者として派遣されているが、そこには「勘解由次官」とある。同年七月一三日には鳥羽院の女御として入内した泰子の家司・諸事・侍が補任されているが、資憲はみえない。翌三年二月一七日の法勝寺金堂被供養金泥一切経に鳥羽院、崇德天皇が行幸した際には、院司行事として平忠盛とともに資憲がみえているが、三月一九日に女御泰子が立后された際には皇后宮権大進として資憲がみえている。次いで八月五日に皇后宮泰子が鹿島神宮使者を派遣することが定められているが、資憲が行事を務めている。資憲は鳥羽院司と皇后宮権大進の業務を並行して行い、保延元年(一一三五)四月九日の除目では、藤原為隆の子憲方とともに正五位下に叙せられている。資憲は二六才、憲方は三〇才であった。これに対して弟資長が正五位下に叙せられたのは久安四年(一一四八)七月一七日であり三〇才であった。なお資憲が先行している。
 康治元年一二月一三日と天養元年九月二二日付の鳥羽院庁下文の署判者として勘解由次官兼下野守である資憲がみえ、下野守に補任されていたことがわかる。それが一二月三〇日に資憲は下野守を辞任し、これ以降、院庁下文の署判者としてはみえない。その後任となったと思われるのが、待賢門院判官代を務めて、女院分国和泉と石見の国守を務めていた藤原宗長である。宗長は宗兼の子で池禅尼の同母弟と思われる。宗長の母は日野有信の娘であり、その甥が資憲であった。
 宗長は待賢門院判官代を務める一方で、長承二年には女御泰子の侍としてもみる。天養元年末まで石見守であったと思われるが、資憲の後任として遷任した下野国は保延五年七月二八日に院号宣下を受けた高陽門院(泰子)の分国であったと思われる。元木泰雄氏は下野国が摂関家の分国であったとは思われないとしているが、何の根拠もない憶測でしかない。資憲は保延四年正月一五日には勘解由次官としてみえ、下野守補任はこれ以降であり、泰子の院号宣下とともに、下野守に補任されたのではないか。石見国は天養二年正月に大和守であった源清忠が遷任してきている。藤原忠通の知行国が大和国から石見国に遷ったのである。

 

日野資憲1

 崇德院の側近中の側近となった資憲について基本的事実を確認する。
 公卿にならなかったため、生年は不明であるが、日野実光とその叔父(有信弟)有定の娘との間に、天永元年頃(一一一〇)に生まれたと思われる(以下ではこの前提で年齢を算出)。高階重仲の娘を母とする異母弟資長は元永二年(一一一九)の生まれである。資長が蔵人となったのは保延三年(一一三七)二月二日であり、一八才であった。これに対して資憲が崇德天皇の蔵人であることが確認できるのは一八才となった大治二年(一一二七)正月五日である。兄弟を比較しつつ述べていく。
 同年一一月一五日には「秀才蔵人資憲」とあるが、資長は蔵人補任の二年前である保延元年七月三〇日に秀才となっている。日野氏が学問の家であるため、資憲も蔵人に補任される前に秀才となったのであろう。大治四年正月六日には蔵人使である資憲が二〇才で叙爵しているが、その前に検非違使にも補任されていたことがわかる。資長も蔵人補任の翌年正月二六日に右衛門尉に補任されるとともに検非違使宣旨を受け、四月には中宮(聖子)臨時御給で叙爵している。日野氏は摂関家家司を務めており、二年後の保延六年四月七日には資長が中宮権大進に補任されている。
 鳥羽院政二年目の大治五年一〇月五日には大殿忠実の使者が鳥羽院のもとを訪れた際に、紀伊権守資憲が取り次ぎをしており、院との関係も有していた。資憲も摂関家との関係も有しており、天承二年(一一三二)二月二八日の法成寺御塔供養では、威儀師の行事を叔父宗光とともに資憲が務め、勧賞として従五位上に叙せられている。供養に先立つ一月二六日には勘解由次官に補任され、二月一七日には関白忠通の家司に補任されている。二三才であったが、弟資長が従五位上となったのは二六才となった康治三年(一一四四)正月六日であり、その意味では資憲が先行していた。天承二年二月一七日には資憲の妻の父で、待賢門院判官代と別当を務めた叔父資光が五〇才で死亡している。

 

2019年7月22日 (月)

鎌倉末期の石見国司補足

 永仁年間の石見守「光世」について、堀川光世に比定し、知行国主は兄弟の光泰ではないかとしたが、当時は堀川宰相と呼ばれ、正安三年正月まで伊勢国知行国主であり、石見国主ではありえなかった。永仁五年(一二九七)閏一〇月二一日六波羅御教書について質問されたのを受けて再度調べ直してみた。ここで永安保地頭永安氏(ただし宛所は削除されている)による石見府中所役等の對捍と検断の抑留を訴えている永安保雑掌実秀は、三条三位中将家御文と請文(地頭によるものか)を一緒に提出している。
 この三条三位中将であるが、『鎌倉遺文』では三条実躬(『実躬卿記』で知られる)に比定しているが、実躬が従三位に叙せられるのは翌永仁六年であり、再検討が必要である。とりあえず『公卿補任』の永仁五年分に登場する人物から「実」が付く人物について調べてみたが、該当する人物はいなかった。そこで弘安~正応年間の石見国知行国主三条実重の関係者で該当する人物がいないか確認したところ、嫡子公茂が条件を満たした。
 出羽郷の問題で述べたように、正応四年(一二九一)に知行国主は三条実重から二条兼基に交替している。そして、「国司一覧」によると『実任卿記』正安三年(一三〇一)二月一一日条に「石見前司光世」がみえるとする。これを堀川光世に比定したが、その時期の知行国主が三条公茂(茂と重は音が同じ)であった可能性が高くなった。そこで、『実任卿記』について調べると、『継塵記』とも呼ばれ、三条公種の子実任の日記で、『続群書類従』にも収録されている。父は実躬の父公貫の兄弟である。
 ネットで検索すると、国文学研究資料館の画像データ「継塵記抄出」が公開されており、正安三年二月一一日条を確認できた。一月二二日に後二条天皇が即位し、父後宇多上皇による院政が開始されたが、後宇多院の初御幸が二月一一日に行われるため、関係者が準備に追われている。当時三八才で正四位下左少将兼播磨守(父実種は右中将で公卿にはなれず)であった実任(七五才まで生きて権中納言になる)のもとに、三条前内府(実重)からの文書(飛騨前司頼房の奉書ヵ)が届いた。その中で実重の子三位中将(公茂)の供奉について述べられている。実任が返事をしたところ、すぐに実重側から使者の僧二名がやって来た。文意が不明な点もあるが、公茂は午刻に束帯で諸大夫一人(石見前司光世)と小随身四人、雑色長一人を伴い参り、実任も参院したことが記されている。
 石見前司光世が三条実重・公茂父子に仕える諸大夫であり、公茂が知行国主であった石見国の国守を務めていたことは明らかであろう。

2019年7月18日 (木)

美福門院の関係者3

 信盛は久安三年(一一四七)正月の除目で隠岐守に補任された。叙爵しており蔵人であった。母や子についての情報はないが俊盛の同母弟である可能性は高い。兄俊盛同様、一〇代後半での国守初任であったと思われる。翌年閏六月に従五位上に叙位され、美福門院の殿上人であった。仁平二年(一一五二)二月に上野守に遷任し、翌三年正月に美福門院御給で正五位下に進んだが、三月一三日に病死した。二〇代前半であったと思われる。
 その後任藤原重家は美福門院の甥(異母兄顕輔の子)で、藤原親忠の後任として久安四年一一月に二一才で補任された摂津守からの遷任であった。前任の摂津国と上野国もまた女院分国であった。女院の死後は二条天皇派となったが、そのため応保二年に後白河により解官されている。
 久安四年には女院の甥(長輔子)で一五才の実清が女院分国越前の国守に、同六年には同母弟実明(母は清隆娘)が女院分国周防の国守に補任されている。両者の同母兄隆輔は康治元年(一一四二)に一四才で従五位下蔵人に補任され、左兵衛権佐、中務大輔を歴任したが、保元三年に三〇才で実明の後任の周防守に補任されている。
 仁平二年(一一五二)一二月三〇日には、親忠の娘美福門院加賀と藤原為経との間に産まれた一一才の隆信が越前守に補任されたが、翌年には親忠が病気のため辞職した若狭守の後任に補任されている。俊盛の子としては、嫡子季能が保元三年に六才で叙爵し、二年後の平治二年に八才で越前守、次いで丹後守に補任された。

美福門院の関係者2

 話を季行に戻すと、当初は父が待賢門院別当であったこともあり待賢門院との関係が強かったが、その妻(藤原宗能娘、母は長実の娘ヵ)が美福門院の子(姝子内親王)の乳母となったため、美福門院との関係が強くなる。康治二年一月三日には正五位下に、久安五年三月二〇日には正四位下に、皇后宮(得子)御給で叙せられている。同年八月三日には院号宣下されて美福門院となり、一〇月二日の殿上始では院司に補任され、以後、女院御所への訪問者への取次を行っている。
 仁平四年八月一八日に一四才となった姫君が親王宣下を受けて姝子内親王となると、勅別当藤原成通のもとで家司に補任された。次いで保元の乱後に保元四年二月二一日に姝子内親王が二条天皇の中宮となると、季行は中宮亮となった。
 季行と俊盛はともに当初は待賢門院との関係を有していたが、その後、美福門院との関係を強めている。季行は敦兼の子で、俊盛は季行の姉妹が母である。敦兼の没年は不明だが、保延四年に六〇才で出家するまでは確認できる。長実の嫡子顕盛は娘得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになる直前に死亡し、弟長親と時通は得子が叡子内親王を産んだ直後に備後守と伯耆守を退任し、その後、任官することはなかった。
 俊盛、親忠に続いて美福門院分国の国守に起用されたのは俊盛の弟信盛である。親忠の子親弘が仁平二年(一一五二)に相模守に補任された際に「元上総守」とあるが(『山槐記除目部類』)、康治元年一〇月見任の藤原季兼(季行の同母兄)、久安五年三月に季兼が備後守に遷任した後任である源資賢がおり、親弘が補任されたのは受領以外(上総親王任国で介が受領)であった(上野介)と思われる。

 

美福門院の関係者1

 その妻が美福門院の娘姝子内親王の乳母となった藤原季行(1114-1162)は北家道綱流敦兼(1079-1138-)の子で母は顕季の娘である。同母兄に季兼がおり、その名前からも母方の祖父顕季(1055-1123)との関係がうかがわれる。その姉妹には藤原成通室、藤原顕盛室がいる。それぞれ白河院近臣宗通と長実の子男である。
 顕盛(1100-1134)は長実(1075-1133)の嫡子で白河院近臣であったが、父から大治二年正月に譲られた修理大夫を、同五年四月二六日に鳥羽院により更迭され、その後も公卿となることなく、長承三年(一一三四)一月二六日に三五才で死亡した。四才下の同母弟長輔は保安四年正月に丹後守を退任後、同年九月には崇德天皇の昇殿を認められたが、その後は天治三年正月に従四位上、長承三年二月一七日に正四位下に鳥羽院分で叙されたのみで、任官することなく散位に留まっていた。また、得子が鳥羽院の寵愛を受けるようになった長承三年八月の時点では近習(昇殿の意味か)を止められていた(『長秋記』)。長輔は崇德朝末期の保延六年一一月に昇殿を許され、翌七年四月に、妻の父藤原清隆が内蔵頭を辞任する替わりに左馬頭に補任された。
 顕盛の死亡時に子俊盛(1120-)は一五才で、同年正月に叙爵したばかりであった。恂子(後の統子)内親王給によるもので、父顕盛が待賢門院別当であったことによるものである。
 俊盛は一七才となった保延二年(一一三六)正月二二日に備後守に補任されたが、五月一〇日には丹後守に遷任した。三才年上の叔母得子(1117-1160)が鳥羽院の寵愛を受けて叡子内親王を産み、同年四月に従三位に叙せられるたことによるものであろう。一一月には得子の乳母伯耆の夫藤原親忠(1095-1153)が安房守に補任されており、丹後国と安房国が得子の分国とされた。
 得子の乳母は、「伯耆」の名前から、保安元年一一月二五日から死亡する長承二年まで子顕盛、長親、時通を国守として伯耆国知行国主であった長実の娘でああり、得子の異母姉であったと思われる。親忠の嫡子親弘は得子と同年の生まれと推定されており、伯耆が得子の乳母に起用されたのだろう。

2019年7月15日 (月)

藤原光能についての補足2

 野口氏は頼朝を囲繞した人々の人脈のかなりの部分が院近臣藤原光能に集約されるとするが、その見解の前提となったのは上横手雅敬氏の研究であった。上横手氏は後白河院と光能と頼朝を結んだのが神護寺復興を担った文覚であり、その背後には院の同母姉上西門院がいたとする。
 話を光能に戻すと、光能と後白河院との関係は長寛二年一一月一六日に「院未給」として、光能が叙爵から一八年後にようやく従五位上に叙せられた時点から始まっていた。前の記事では仁安二年正月の記事で「院司」としてみえることに注目したが、補足したように、その前年の永万二年一月一〇日の御白河院庁下文の署判者(判官代)として「下野守藤原朝臣」がみえている。後白河が光能の能力を買って叙位を行い、続いて待賢門院女房関屋の兄弟藤原懐遠が下野守を辞任して光能の下野守補任が実現した。その後は急速に昇進を重ね、知行国主、蔵人頭、参議となり、院庁下文にも別当として署判するようになっている。
  ただ、これは後白河の意向であり、光能が後白河をどのように思っていたかは別の問題である。安元三年に崇德の側近であった藤原教長の働きかけを承けて、蔵人頭光能がその除霊(後白河は熱心ではなかった)のため動いたこと、光能の後家(足立遠元の娘)が崇德院御影堂の領家であったことについてはすでに述べたとおりである。

藤原光能についての補足1

 安田元久氏論集到着後、野口実氏「流人の周辺」を読んだ時点では特に補足の必要を感じなかったが、若干補足したい。
 野口氏は頼朝関係者をその背景毎に述べているが、「その他」のトップバッターとしてとして武蔵国泉勝田を勧賞として頼朝から与えられた毛呂季綱と、頼朝の知行国となった豊後の国守に推挙されたその父季光を挙げている。季光は頼朝との間に由緒があり、門葉に準ずる存在であった。野口氏は権中納言兼大宰権帥であった季仲の曾孫季光が何を理由に武蔵国に土着したかを含めてその背景をご存じなかったようだが、それは以下の通りである。
 季仲は宇佐八幡とのトラブルで解任された日野実政のように、延暦寺末寺の濫行を鎮圧した際に日吉社神人を殺害し、延暦寺の訴えを受けて長治二年一二月二九日に解任、配流された。余従六人も遠流とされた(『中右記』)。季仲は一旦は周防国への配流とされたが、翌嘉承元年には遠流として常陸国に流され(この時に高階泰仲娘を母とする刑部少輔懐季と少納言実明が解官された)、元永二年六月一日に配流地で死亡している。実明は間もなく許され、天仁元年一一月二日には「大宮亮実明」、天永元年三月三日には殿上人としてみえ、九月八日の時点では四位であった。大治三年九月一八日に頓滅した際の記事(『中右記目録』)にも「前大宮亮実明」と記されている。
 季仲の子、或いは実明の子ともされる仲光は常陸国に流された季仲との関係で、関東に土着したのではないか。実明の娘は待賢門院女房となっている。また、実明の姉妹は源行宗の室となっているが、行宗の養女が崇德天皇との間に重仁親王を産んだ兵衛佐局であった。季光が頼朝の門葉に准らえられるとは崇德天皇・兵衛佐局との関係からであろう。なお、季仲の従姉妹(父経季の兄弟経平の娘)は閑院流藤原実季との間に公実・保実・鳥羽院の母を産んでおり、待賢門院との関係も深かった。さらに、兵衛佐局の実父信縁は季仲の兄弟(増覚と季実の二説あり)の子であった。

2019年7月14日 (日)

以前の記事の補足2

 「池禅尼」の生没年は不明だとしたが、没年については佐々木紀一氏「池禅尼の没年」(『山形県立米沢女子短期大学付属生活文化研究所報告』三四号、二〇〇七年)の中で新出史料に基づき、応保二年(一一六二)末か翌三年始め頃であったとの成果が得られているそうだ(栗山圭子「池禅尼と二位尼ー平家の後家たち」(『保元・平治の乱と平氏の栄華』)。当該雑誌は公開されているのが三九号以降であり、県内で所蔵している図書館(家政学関係の論文の抜刷の一部のみ県立大学松江キャンパスが所蔵)はなく、国会図書館に複写を依頼する外なさそうである。とはいえ、「あたり」との書き方から想定できるのは、禅尼の子頼盛の重服が終了した時期が明らかになったことである。一般公開されている『公卿補任』(国会図書館蔵と『大日本史料』掲載分)にはその記録を欠いているのが不可思議であったが、その記載のある写本が確認され、頼盛の復任の時期から少し幅を持たせていると思われる。
 応保元年九月三日には後白河院と女御平滋子との間に憲仁親王(高倉天皇)が誕生し、平時忠と清盛の異母弟教盛がその立太子を画策したとして解官されているが、清盛の妻時子と滋子は母親が違い、清盛が関与した形跡はないとされる。応保三年正月二四日に頼盛は尾張守を辞任し、清盛の子重衡(母時子)に交替しているが、頼盛は知行国主となったと推定されている。とはいえ、頼盛の官職・位階が停滞する中。清盛の嫡子重盛が応保二年には正四位下に叙されて追いつくと、翌年には従三位に叙されて公卿になったのに対して、頼盛が従三位公卿となったのは仁安元年(一一六六)であった。禅尼の死が頼盛の平氏一門での地位を低下させた。後白河の寵臣で重盛の正室経子の同母兄と推定される藤原成親もその時点で公卿となった。
 頼盛は、皇太后宮(近衛天皇中宮呈子)権大夫に補任されたが、滋子を皇太后にするため、呈子は仁安三年三月に院号宣下をうけて九条院となった。頼盛の職は停止され、替わって皇太后宮権大夫となったのは清盛と時子の間の生まれていた宗盛であった。同年一〇月に頼盛は参議となったが、その一ヶ月後には公的行事への不参加等を理由に子保盛とともに全ての官職を解官された。一年後にようやく許されるが、その後頼盛が接近したのは美福門院の娘で膨大な庄園を譲られていた八条院であった。
(補足)佐々木氏は『暇服の事』(前田育徳会尊経閣文庫所蔵)中の『山槐記』抜書の応保二年一二月一七日条に、修理大夫平頼盛が母の病が危急の状態であるとして臨時祭使を辞退したことと、代理を打診された能登守平教盛が、頼盛の母は自分の継母であり、父忠盛の死後、継母の関係の裳服が無いことを確認してから返事をすると答えた記事から、池禅尼の死亡時期を推定された。

以前の記事の補足1

 「藤原信頼について」で信頼の姉妹と藤原忠通の子基実との結婚について、元木氏の説くような忠通と信頼の間のトラブル後ではないのではないかとの疑問を記した。また、信頼の父忠隆の異母兄隆頼と摂関家の関係がその背景にあったのではないかと述べた。
 この点についてようやく遭遇した河内祥輔氏『保元の乱・平治の乱』(出版直後の二〇〇二年に購入し読んでいたが、最近所在不明であった)を読んでいたら、婚姻の時期について注で以下のように出典が記されていた。
『桃花蘂葉』(胡曹抄)に「広季記。平治元年七月一日、六条摂政、信頼の妹を迎え給う」とある(高群逸枝『平安鎌倉室町家族の研究』〈一九八五年、国書刊行会〉二二〇頁参照)。
 そこで『桃花蘂葉』について確認してみた。幸い宮内庁書陵部図書寮文庫所蔵本がネットで公開されていた。五摂家の一つである一条家の儀式における着用装束について、旧記等から抜粋したものであった。『樵談治要』で知られる一条兼良が文明一二年にまとめ、一条家当主が門外不出として管理していたものである。宮内庁本は天文一三年六月に一条房通が子房基の懇望に応えて写して渡したことが記されている。
 一条家は九条兼実の子孫であるが、その家の寺院や庄園についても記されている。そうした中、「女房装束事」と題した部分に先例として「平治元七二六条摂政嫁娶〈于時関白〉右衛門督信頼妹」時の服装について記されていた。この写本は高群氏の引用した本とは異なるようで(群書類従本もある)、日付も平治元年七月二日と記されており、広季記についての言及もない。とはいえ、婚姻が事件後であることは確認できたので、前の疑問は撤回しなければならない。

 

2019年7月 9日 (火)

丸毛兼幸について2

 是阿の母は阿忍の娘であり兼幸に安富郷を譲った祖母ではない。となると、父兼直の母が連阿ということになる。連阿は兼久・幸寿の子であり、兼直ではなくその子兼幸に安富郷を譲るとともに、「幸寿」にちなんで「兼幸」を名乗らせた。是阿もまた所領を子ではなく孫兼里に、兼幸は孫直世に譲ったことになる。
 丸毛一分地頭で安富郷地頭であった兼幸は南朝方となった周布氏ではなく、幕府方となった益田氏や宇地氏と行動を共にした。観応の擾乱期になって益田氏・宇地氏と丸毛(安富)兼幸は反幕府方に転じ、貞治三年に益田氏が三隅氏とともに幕府方となった際にも行動を共にした。その点で気になるのが正平一七年一二月晦日某(足利直冬)宛行状であり、兼幸領長野庄角井村が三隅石見判官直連に与えられている。足利直冬は一一月から一二月に石見国人に軍勢催促をして備後国攻撃を行っていた。兼幸が参陣しなかったための没収であった。正平一八年二月一八日兼幸譲状を見る限り、兼幸が幕府方となるまでには至っていなかったが、正平一〇年譲状での孫子助九郎直世への譲与を、子九郎入道智弘への譲与に変更している。足利直冬との密接な関係がうかがわれる直世への譲与を改めており、幕府方となるのは時間の問題だった。
 備後国出兵の間隙を突く形で、幕府方の石見国内での動きが復活する。貞治二年正月には守護荒河氏の関係者が君谷祐忠に安須奈庄を沙汰付けている。九月一〇日までに直冬方は備後国から没落したことを幕府が小早川春平に伝えている。
 これに先立つ貞治二年七月には益田兼見が北朝年号を記した譲状を作成し、一二月一四日には、幕府が高橋氏によって押領されていた出羽上下郷を出羽祐忠に沙汰付るよう守護荒河詮頼に命じている。三隅氏が幕府から本領を安堵された貞治三年八月には、周布兼氏や他の国人に対しても将軍や幕府方から軍勢催促状が出されている。その後の経過はすでに述べた通りである。

丸毛兼幸について1

 丸毛兼幸についてはその譲状と軍忠状が残っているにもかかわらず、謎多き人物である。今回、久留島氏が紹介された系図を踏まえながら確認したい。
 兼幸の父が名宣、祖母(父方か母方かは不明)が連阿であることは、正平一〇年三月十六日兼幸譲状から明らかである。名宣の実名は兼直(三隅氏系図では兼貞)である。問題はここからである。久留島氏が三隅氏系図の元となったとされた益田氏系図(国7-2-16)では、兼直は丸毛氏初代兼忠の孫兼氏の子とするが、三隅氏系図では兼氏の兄弟(兼信の子)とし、さらには兼幸の兄弟として兼義と兼顕を記している。譜録成立後の益田氏系図(国文研の整理番号F921、F894、F922、R8)ではいずれも兼氏の子として兼親のみ記す.三隅氏系図も同様である。萩博物館所蔵周布氏系図に含まれる丸毛家略系も兼直を兼氏の兄弟とし、妻の実家波多家から宇地村地頭を譲られたとする。更に兼直の子兼幸の母を波多与市兼国(兼弘の兄弟)の娘亀夜叉と、具体的な記述がある。兼氏の子としては兼親のみ記しており、この系図が譜録成立後の益田氏系図に影響を与えたと思われる。
 久留島氏は国7-2-16を三隅氏系図の元となったものとされており、簡単ではない。さらに、今回紹介された石見国宇地村地頭系図(国7-2-11)では、波多兼国の姉妹として宇地村地頭是阿(亀夜叉)を、その子として兼幸、孫として兼里を記している。是阿の譲状には孫子兼里のみみえ、兼幸の譲状にも子九郎入道智弘と孫子直世しかみえない。さらに兼里譲状にはその由緒に関する記述がない。
 丸毛兼幸は元弘三年九月一四日に安富郷と丸毛別符内堀越村・渋谷名の当知行を国宣で安堵されており、是阿は七月二六日に宇地村の当知行を安堵されている(建武五年二月一一日申状具書目録)。是阿が建武五年に孫子に所領を譲ったのに対して、兼幸は正平一〇年に孫子に所領を譲っており、是阿が一世代早いことは確認できる。以上を踏まえると、是阿は兼弘と同世代、兼幸は兼弘の嫡子兼世と同世代と思われ、是阿は波多兼国の娘ではなく、兼弘・兼国の姉妹とすべきであろう。

2019年7月 7日 (日)

美作勝山合戦の再検討

 この点については八年前にブログへの質問に答える形で述べたが、近年の倉恒康一氏「徳島福屋氏旧蔵尼子氏関係文書について-「立原福屋両家伝」の検討と紹介」の成果に基づき、再検討する。
 尼子長童丸感状写(立原福屋両家伝)について、中沢文書の影写本から翻刻され、併せて『出雲尼子史料集』(『大原郡誌』より引用)には未収録の尼子国久感状も翻刻された。前者は一〇月六日ではなく二六日が正しく、後者は一〇月二七日付である。後者の花押は国久の花押として問題ないとしている。
 長童丸が義久の童名であることは「神魂・伊弉諾両社先例覚書断簡」により確認でき、且つ天文二一年一二月一五日には「三郎様」とみえ、これ以前に元服していたことが確認される。これにより両文書が天文二一年以前のものであることがわかる。倉恒氏は「天文二一年ヵ」としたが、関連史料を確認すると、天文二〇年一〇月に尼子晴久とその家臣が美作国に出張しており(証如上人日記)、この際に勝山合戦が行われた。石山本願寺と尼子氏家臣が交信しており、そこには尼子式部少輔誠久、弟の孫四郎と甚四郎、さらには弟の佐右衛門大夫敬久がみえるが、父国久はみえていない。
 国久感状をみるとわかるが、国久は立原源太兵衛からの合戦の報告を受けた上で、高田・勝山合戦の感状を与えており、合戦の現場からは離れた場所にいた。元服前の義久(長童丸)とともに富田城に残っていたと思われる。「家伝」では「石州高田合戦」と「伯州城主山名」との合戦が記されているが、後者は一六才であった山中幸盛が初高名を上げたとしており、永禄年間の合戦であろう。となると高田は石見国となるが、以下のように美作国である。
 美作国勝山合戦と密接な関係を有するのが、同年に比定できる一二月一六日尼子晴久袖判三浦氏知行安堵状と尼子誠久・牛尾幸清連署書状(石見牧家文書)である。前者には「此旨高田衆へ可被仰渡候」とあり、高田が美作国の地名であることは明白である。以前、この文書は『尼子史料集』が比定した天文一七年頃のものではなく、室町幕府から晴久が守護に補任された天文二一年三月以降のものとしたが、天文二〇年のものに修正する。天文一五年から花押は大型化(横幅が拡大)するが、守護補任以降は、横線の角度が小さく平坦化している。花押のみではわかりにくいが、晴久と花押が記されている場合、「久」の字と花押上端の横線の間の隙間がなくなっている。当該文書の袖判は大型化しているが、久と花押上端の間には明確は隙間がみられる。
 以上、倉恒氏論文の成果を反映させ、より正確な結論を得ることができた。 

 

七月の近況2

 最近のノートパソコンは画面が一六対九で、且つグレアなので仕事に使うには不都合である。そうした中、マイクロソフト・サーフェイスラップトップが三対二の画面を採用し、ファーウェイ・メイトブックが追随した。後者はマックブックプロをも意識させながら、価格面ではリーズナブルである。ただし、国営企業から民営化された経緯もあり、中国政府との関係が強いとして、最近はトランプ政権による制裁対象となり、知名度を高めるとともに、購入を逡巡させられる面もある。
 ワイ・マックスの二年契約が終わったので更新したが、諸般の事情から、これまでの据え置き型(円筒形、ファーウェイ)から携帯型(ファーウェイではなくNEC製を選択)に変更した。光ファイバーもそうだが、契約が終わるたびに新たな業者に乗り換えた方が割引が大きいが、手続きが面倒なため、ニフティで継続した。今回は継続であるため三年契約である。ニフティでは光ファイバーを解約した際に、IDは残して、メールとブログが継続できるようにしていたこともある。今回の選択は家族が職場や実家でも使うためであり、前回の月七Gを越えると使い物にならないぐらい遅くなる標準モードではなく、無制限モードとした。月額七百円程度の差である。
 将来的にニフティでサーバーを借りてHPを立ち上げる予定であったが、そのサービスは終わったようで、サーバーのみをレンタルする業者を選定することになる。現在はメガエッグでオプションでHP領域を加えてアップしているが、容量が小さいため、テキスト中心で、画像は最小限の使用である。
 今回は久しぶりに、イイヤマNT310を利用している。12インチで四対三の画面であり、縦書き四〇字で入力している。やや小さいがなんとかなる。ソフトは今は無き一太郎ライト2であり、非力なNT310でも支障はない。OSはウィンドウズ2000である。過去のファイルを探すためであったが、一方では、最近の三対二のノートでの縦書き表示の実用性をみるためであった。一行四〇字なら問題はないが、当方では五二字で原稿を入力・編集する必要がある。一五インチ(一四〇〇×一〇五〇)と一七インチ(一九二〇×一二〇〇)のノートも保有しており、これなら五二字もなんとか対応可能であった。サーフェイスは一三・五インチ、メイトブックは一三インチと一三・九インチであるが、視力の低下が気になる身には、やはり大きい方がよさそうである。
 イイヤマNT310はキーピッチが17ミリとやや狭いが、入力にはほとんど支障がない。理系のように数字を多用する人にはその機能キーが横幅のみならず縦幅も小さいので不便であろうが、文系の縦書き文書では支障とはならない。キーボードは両方とも問題がなさそうであるが、サーフェイスにはマイクロソフト製の安心感がある。
 現在はノートパソコンを使う機会が減っている。デスクトップパソコン(DELL)に、二六・五インチ(一九二〇×一九二〇、EIZO製)をメインとし(大変快適である。三二インチ四Kも検討したが、スペースを取る上に、縦方向の長さは十分ではない)、左手に二四インチ(二五六〇×一四四〇、BENQ製)、右手に二七インチ(四K、DELL製)のモニターを配置している。ビデオカードはNvidea1060と1050(これは自作PC用)を使用。仕事には大変良いが、このような短い文章作成やネット閲覧には電気の無駄遣いのような気がする。左右のモニターの電源を切ればよいが、前回電源を落とした時点での三画面を記憶しているのか、インターネット(エクスプローラー、エッジ、クロームを使用)が、電源を落としたモニターに表示され閲覧できないことがある。とりあえず、ノートパソコンも外付けモニター(最低でもFHD)一台の使用が可能でなければならない。

2019年7月 6日 (土)

六代相伝とは何ヵ

 貞応二年五月二五日関東下知状の中で、飯多郷について兼季の三代知行を仲広承伏した上に、兼季が度々地頭として成敗を受けていることは明らかだとして、幕府は仲広の訴えを退け、兼季に飯多郷地頭職を安堵した。この三代知行が兼栄-兼高-兼季であることは明らかである。兼栄が初めて飯多郷の下司となったことになる。
 これに対して、仁治三年四月二五日関東下知状の中には、周布郷(吉高名)・鳥居郷・安富郷(本名別符)を益田兼時が舎弟兼定に譲った際に、故大将家御下文は貞応二年六月一三日に焼失し、六代相伝之文書は手継文書のため、割分に及ばず、兼定に渡すことはできなかったとしている。系図に従えば、国兼-季兼-兼栄-兼高-兼季-兼時となるが、季兼と兼栄が親子ではなく兄弟であることは以前述べた通りである。季兼までは兼が名前の下の字に付いたのに対して、兼栄以降は兼が名前の上に付いている。
 季兼については大半の益田家系図では兼実か兼真であり、唯一、鈴木真年氏所蔵石州益田家系図のみ兼季としてその注記には「改兼実」とある。兼実であったのを兼季と改めたとの解釈が普通であろうが、他系図が兼季と記さないことからすると、兼季から兼実と改めたとの解釈も可能である。久留島氏によると、益田家では家系図をどのようにするか検討する一方で、その背景を知ることができる系図を廃棄せずに残したとされる。そこで問題となるのは、兼長・兼久兄弟と兼久の子兼胤の扱いと、兼弘の後の「兼世」の扱いである。ただし、兼世の情報を残したのは三隅氏系図とその元となった益田氏系図のみであり、季兼と兼実(真)の問題に至っては鈴木氏本が残らなければ、全く不明であった。それは益田氏の祖とされる国兼の父と兄弟も同様である。これまで、国兼の父とされたのは日野有隆と藤原公通であったが、鈴木氏本では宗季とし、その四人の子国季・国兼・国頼・国宗を記している。父との関係が強いのは「益田太郎」との注記のある国季と末弟の国宗であろうか。四人とも石見国守源国保とその父雅国の影響を受けているが、父の名前の一字を付けているのは国季と国宗である。
 一方、国兼の子が「兼」を付けているのは国保の後任も石見国守源季兼との関係であろう。季兼の名からは益田太郎国季と源季兼の影響がみられるが、それゆえに他の系図では抹殺されたのではないか。その代わりに兼実(兼真)の名が記され、本来の国季の子の扱いではなく、国兼の子の位置に記されたのではないか。
 当方では季兼(兼実・兼真)が一の谷合戦に参陣した「案(安)主大夫」でああり、国兼の子ではないと考えた。となると六代相伝が問題となるが、それは国兼の父宗季から始まり、国兼-兼栄-兼高-兼季-兼時と続く六代であると結論付けた。仁治三年段階では系図の再編成・修正は始まっていないのである。

弥富名の相伝次第3

 話を弥富名に戻すと、弥富名は三隅兼信の娘阿忍領であったが、父兼信ではなく夫兼長領を継承したものであった。永安氏初代兼祐は阿忍の弟である。一方、疋見・津毛別符や小石見郷をめぐって益田氏と三隅氏の間では対立があった。本来は益田氏領であったが、建武二年に益田庄とこの三所領が益田氏惣領に本領安堵(失った所領を回復)されたが、実際に益田氏惣領が支配したのは益田本郷のみであり、残り三ヵ所は三隅氏領となった。貞治六年三月五日足利義詮御判御教書(益田實氏所蔵)によると、貞治三年八月二一日に三隅氏の本領だとして、納田郷(三隅郷)・木束郷とともに津毛・疋見別符が安堵されている。
 吉川経兼が小弥富に加えて弥富名の安堵を申請した背景として、反幕府方が優位に立ったことがある。また益田氏と三隅氏の所領をめぐる対立に関連して注目されるのが、貞治五年五月六日益田兼見文書受取状である。その最初に、代々の御下文案文が紛失したとして足利直冬の裏判を得た紛失状が記されている。三隅氏が所持していたが、益田氏と三隅氏が幕府方に復帰する際に調整が行われた結果、益田氏は疋見・津毛について譲歩し、その条件として、将来の紛争の火種となりなかねない直冬裏判の紛失状を三隅氏から得たのであろう。その中には益田氏領である弥富名も含まれていたと思われる。益田氏からすれば容認できない文書であろうが、三隅氏は建武政権下や直冬方では益田氏より優位な立場にあり、益田氏も反幕府方である時期には妥協せざるを得なかった。それが故に、兼世・兼利父子は幕府方に戻ろうとしたのである。

 

弥富名の相伝次第2

 九月一八日には、直冬方の大将仁科盛宗が石見凶徒退治のため三隅に着陣したことを伝えるとともに、近日中に誉田に発向するとして軍勢催促状を内田氏惣領三郎致世宛に出している。翌正平九年正月二〇日には直冬が致世の忠節を賞している。正平八年一二月二七日には仁科盛宗が、貞松名を致世に沙汰付けるよう、三隅信性と周布兼氏に命じている。周布氏の庶子である内兼成が貞松名に対する支配を主張して抵抗したためである。
 内田氏惣領致景は遠江国で幕府方として活動していたが、石見国では庶子致員が反幕府方となった。幕府は豊田城を攻撃・落城させるとともに、内田氏領豊田郷と貞松名を闕所としてした。これに対して致景が石見国に入り、幕府方として軍功を上げる一方で、自分の所領であることを主張して認められた。ところが、観応の擾乱で幕府が分裂すると、石見国内では反幕府方が優位に立ち、正平七年三月には内兼成が貞松名は叔父内田致員から譲られたものであるとして安堵を求める申状を提出している。
 反幕府方優位のもと兼成は貞松名を実効支配していたが、内田致景の嫡子致世が催促に応じて反幕府方となった。直冬方は本主である致世の支配を認め、兼成は安堵を取り消されたため対立が起こった。

 

弥富名の相伝次第1

 永安氏との弥富下村をめぐる相論の中で、益田祥兼は自己の権利は正和五年二月二一日に阿忍が弥富村を孫に三人の譲ったことに基づくと主張している。この主張について、久留島氏は阿忍置文にはその主張と一致する文言はないとされる。それは鳥居女房が阿忍跡の惣領として伊甘郷惣領地頭職を譲られたが、弥富名については、用途の請取のみ記され、同二年一〇月一五日の譲状でも弥富名への言及がない。鳥居女房は弥富名については、福圓寺分の一町を管理して寺の興業を委ねられたのではないか。一方、伊甘郷も孫・曾孫に分割して譲られており、弥富郷が三人の孫に譲られたとする祥兼の主張には根拠があると思われる。
 一方、永安氏の主張にはどのような根拠があるだろうか。久留島氏は弥富名が永安兼祐から孫娘良海に譲られ、その後男子兼員が誕生したため、悔い返されたというと記しているが、これは弥富名から独立して三隅氏が譲られた小弥富の誤りである。弥富名は夫兼長の遺領として阿忍が譲られており、益田氏領である。
 貞和七年六月一九日三隅信性請文(吉川家文書)では庶子吉川経兼領「納田郷内弥富・小弥富・庄窪等田畠并永安別府地頭職」については、相伝と当知行とも問題が無いとして足利直冬奉行所に起請文を提出している。ただし、これに基づき出されるはずの直冬下文は残されていない。発給されたが、後に益田氏領であるとして没収された可能性がある。実際、寛元四年一一月三日将軍頼嗣袖判下文で三隅兼信から乙法師丸(永安兼祐)への譲与が安堵されているが、その根拠となった三通譲状の内小弥富に関するものは残されていない。
 小弥富(現浜田市)と弥富下村(現益田市)が別の所領であることも明らかであるが、では永安氏は何を根拠としたのだろう。考えられるのは、正平八年に足利直冬方国人が益田攻撃を命じられていることである。益田氏惣領は動乱当初は幕府方であったが、貞和五年一一月までに反幕府方に転じ、同月三日には三隅城を包囲する幕府方を攻撃して退却させている。惣領兼忠(系図では兼直や直兼とするが、同音である前者はともかく後者はありえない表記である)が主導したものであった。その兼忠が貞和七年三月二三日去渡状を最後に姿を消しており、死亡した可能性が高い。そうした中、兼忠の父兼世と弟兼利(系図では兼忠の養子となったとする)が、幕府方の働きかけもあって、幕府方に転じたと思われる。「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村内検目録で北朝年号が使用されており、乙吉氏の中にもこれと呼応するものがあった。

 

益田氏惣領の行方2

 兼長が死亡した時点で阿忍が二五才であったとの情報については既に紹介した。この時点で千手は幼少であり、兼長の同母弟兼久が益田氏惣領となるのは自然な流れである。兼長後家阿忍へも所領が配分されたが、その後まもなく兼久も死亡し、所領の再分配が行われた可能性が強い。兼弘が返還を拒否した阿忍の文書には、①文永一一〔一〇ヵ〕年(一二七三)四月一七日御下文とともに②寛元二年(一二四五)七月一八日関東下知状があった。①も文書を見れば関東下知状である。②は兼長が所領を継承したことに関するものであろうが、一般的な相続ならば将軍袖判下文家政所下文であるので、これも兼時が未配分で死亡したための配分に関するものであろう。
 前に述べたように兼長の死は配分が行われた文永一〇年の一〇年以上前であった。間もなく弟兼久も死亡した。これにより、さらなる配分が必要となり、決着したのが文永一〇年であった。兼久が一旦惣領となっていなければ、その子兼胤が惣領とともに益田本郷外複数の所領を配分されることは考えられない。一方、兼長の後家阿忍とともに娘千手にも所領が配分された。
 そうした中で兼胤による千手への女捕事件が起き、兼胤が相続した所領は没収された。兼胤の子兼弘が東山道郷と北山道郷(こちらは他の子にも分割して譲られた)を得たのは母千寿領であったためである。益田氏内部では、兼胤と千手を結婚させる形で事態の収集が図られ、兼弘の兄弟姉妹も誕生した。正応二年(一二八九)正月一三日に是阿は宇地村を譲られたが、それは祖母阿忍領「北仙洞郷内田参町柒段」であった。この時点で五〇代前半であったと思われる阿忍は伊甘郷を益田氏惣領兼弘に譲った。弥富名についても同時期にこの二人以外の孫某に譲ったのであろう。
 それが譲状を修正する必要が出たため、正和年間に阿忍が兼弘に譲状と支証の返還を求めたところ、兼弘が抑留したため、阿忍が幕府に訴えている。そこでは弥富名と宇地村には言及されてはいないが、宇地村は是阿が兼弘を訴える事態となっていた。正和二年一〇月一五日に阿忍は兼弘への譲状を破棄して、新たに別の孫である鳥居女房に伊甘郷を譲り、死を前にした同五年二月二一日には置文を作成した。この時点でも問題は解決しておらず、同月二四日には六波羅探題が土屋氏に対して兼弘に文書の糺返について伝える事を命じている。鎌倉初期に大田郷地頭となった土屋氏が、邑智郡桜井庄を得ていたがため、選ばれたもので、おそらくは守護とその関係者だけでなく、周辺の地頭にも同様の命令が出されたと思われる。元亨二年二月二七日に兼弘が是阿に宇地村を去渡したのはその成果であろうか。

 

益田氏惣領の行方1

 久留島氏による新史料の公開により、表題のテーマに関する情報が格段に増え、より客観性のある分析が可能となった。これまでも、その時点(明らかとなった史料に基づく)ではそれなりの客観性を持っていると思った説が、実は異なっていたことが判明した事は何度となくあった。以下具体的に述べていく。
 久留島氏は「益田氏の系譜関係再考」の中で、兼長の遺領のうち益田本郷等主要部分を受け継いだのは娘千手であり、その子兼弘、兼利(俊)や女子(法名是阿)などがいて、益田氏惣領の地位は千手から兼弘へ、さらには兼世へと継承されたと推測できるのではないかとされた。これにより、兼長の死後、弟兼久をへてその子兼胤が益田氏惣領を継承したとの説に対して疑問を提示された。
 これを読んで、当方も一度は兼久による継承は事実ではなかったと思ったが、そうすると更に多くの疑問が生まれ、やはり兼久が惣領を継承したと考え直した。二転三転である。久留島氏は兼胤については分析されていないが、兼胤が益田氏領の大半を没収されたことを前提としないと、その後の益田氏について理解することはできない。
 例えば、千手が益田本郷を受け継いだとすると、その子兼弘はなぜ「山道孫太郎」と呼ばれたのだろうか。福田栄次郎氏の説に戻って、兼弘以外の嫡子がいたが南北朝の動乱で没落し、それに替わって兼弘の子孫が惣領の地位を奪ったことになってしまう。兼弘が兼胤と千手の子であることは確実である。兼弘は父から譲られる所領がなかったため、母千手領を譲られた。益田本郷は千手ではなく兼胤の所領であったが、没収された。
 千手が兼胤による女捕の被害者である点と兼胤との間に兼弘を含む複数の子を産んでいる点に疑問があるかもしれない。以前は、兼久の子兼胤は兼長の娘との結婚を前提に惣領となったと考えたが、こうした中で女捕が起きることはありえない。そうしてみると、兼胤と千寿は結婚する予定ではなかったが、女捕後結婚し、複数の子が生まれたと解釈する外はない。
 トラブル相手との結婚というと変であるかもしれないが、以前、益田兼時は弟周布兼定に譲った所領が、兼定の死により異母弟兼政と兼定後家並びにその連れ子幸寿に譲られたことに介入し、子兼久を養子に入れて相続させようとした。これに対して兼政と後家が訴え、介入は退けられた。ところがその後、対立したはずの幸寿と兼久が結婚する形で事態は収拾されている。

 

三隅氏の幕府帰参時期

 新出の益田實氏所蔵文書により、貞治三年(一三六四)八月に三隅氏女が幕府(将軍であろう)から本領安堵状を得ていた事がわかった。これを踏まえて貞治五年九月三日益田兼見軍忠状を解釈し直す必要がある。兼見は貞治三年九月に幕府からの軍勢催促の奉書を受けて、同月二六日には三隅城に発向し、一〇月五日には大寺要害を構築している。従来は、なお反幕府方であった三隅氏を攻撃するためだと解釈してきたが、三隅氏が八月までに幕府方に転じていたとすると別の解釈が必要である。直冬方から幕府方に転じようとした益田兼世・兼利が直冬方国人からの攻撃を受けたことはすでに述べたが、同様の事態が想定できる。
 すなわち一貫して反幕府方の中心であった三隅氏が幕府方に転じたことに反発する直冬方国人が三隅氏を攻撃したと。これに対して幕府方の命を受けた益田兼見は三隅氏救援に赴き反幕府方国人を退けたと思われる。三隅氏が益田氏と同様、相対的に早い時期に幕府方となった背景としては、三隅信性の孫直連(父兼知は反幕府方による京都攻撃に参加した際に戦史)と益田兼見の娘が結婚していたことがあった。貞治三年八月に所領を安堵された藤原氏女は両者の間に生まれていた娘であろう。直連が死亡した可能性もあるが、直連が引退することで、幕府方への復帰を実現した可能性が大きい。前に紹介した『石見国益田庄御旧封古事記』には兼見は三隅氏の庶子であったとの記述があるが、それが具体的にどのようなものかは不明である(その母が三隅氏出身であった可能性はある)。
 貞治五年七月には石見国内の反幕府方国人討伐のため、大内弘世が周防国から進発すると、兼見もこれに合流し、七月一三日に青竜寺城へ発向した。『史料集益田兼見とその時代』では大寺=青竜寺城としているが、明らかに表記が異なっており、青竜寺城は福屋氏の支城であろう。二年前の三隅城攻撃の中心であり、当時の反幕府方の中心であった福屋氏に対して、幕府側の反撃の準備が整い、作戦が実施されたのであろう。石見国での勲功により大内弘世は山名義理に代わって石見国守護に補任された。

2019年7月 1日 (月)

七月の近況

 はやくも二〇一九年も半分がすぎた。ひと月ほど前から左膝の痛みがあり、通院しているが、改善のきざしはない。医者から年齢によるものと言われればそれ以上言いようがない。運動量が減ることによるマイナスが少なければ良いが。
 今年の初めの新出文書に続いて、益田氏と長野庄に関する新系図の公開により、これまでの考え方を改めなければならない点が出てきた。刑事事件の裁判でも、無罪でありながら証拠資料の不足から、合理的に判断すると有罪となる事例が、新証拠で一変に無罪となることがあるのと一緒である。さすがにアリバイ成立というほどの決定的資料はなかなか出ないが。
 以前から石見国内の守護領はどこかと思っていたが、西田氏により東部の稲用の存在があきらかとされた。西部の吉賀郡には南北朝期に大内氏の守護領があったのは確認できる。鎌倉期にさかのぼる可能性も大きいが、一方では吉賀郡と美濃郡に両属する形となった豊田郷も有力な候補と考えていた。
 新系図によると、物部季遠の子光安領は嫡子兼光が継承し、庶子兼盛は、寿永元年には角井下司国高の子で豊田郷下司であったと思われる藤原国直の聟となっていた。二人の兄弟とも「兼」の字を付けており、藤原雅国・国保父子の後任の石見守源季兼との関係がうかがわれるが、兼盛が甥の所領に介入した背景として考えられるのは、義父国直の所帯が没収され、それが守護領となったことではないか。国直の聟兼盛は豊田郷地頭佐々木定綱を背景に、甥光平領に介入し、「字白上六郎」と記されるように、白上村の一部を手に入れたのは確実であろう。しかし、定綱の嫡子広綱が承久京方で没落したことは。兼盛にも影響を与えたと思われる。
 出雲大社領をみればわかるが、下司といっても基本的には一年契約であり、翌年により有利な条件で下司を希望する者があれば、領家・預所による新下司の補任は普通のことである。領家との関係、さらには守護との関係、治承・寿永の乱、承久の乱と様々な外部的要因が長野庄下司達の動向に大きな影響を与えたのは確かであろう。ただ、久留島氏が述べられたような影響があった可能性もある。また、久留島氏は益田氏が関係史料をよく残したとされたが、肝心の益田氏初代の国兼と、一三世紀半ば過ぎに所領を没収された兼胤ついては、三隅氏系図や鈴木氏の系図以外ではその情報は抹殺されている。以前、松江市史講座では「残されなかった史料から考える」との題名で話をした。矛盾する題名だと思う人があるかもしれないが、それができないひとは歴史を論ずることはできない。
 豊田郷が守護佐々木広綱領なら、後任の地頭も守護ではないかとの疑問もあろうが、守護が討伐され所帯を没収される場合、勲功をあげた武士がいる場合は、結果として守護領は減少する。例としては梶原景時が討伐された後の播磨国守護領である。景時領は、後任の守護だけでなくその討伐に活躍した駿河国武士にも与えられた。

« 2019年6月 | トップページ | 2019年8月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ