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2019年6月 5日 (水)

熱田神宮大宮司藤原季範

 熱田神宮大宮司季範の娘たちが待賢門院並びにその子上西門院の女房となるきっかけとなったのは、永久二年四月三日の待賢門院の異母弟季成の尾張守(知行国主西園寺通季)補任であるとの仮説を提示した。季成の尾張守補任は公卿補任に記載されている。ところが五味文彦氏はその時期の尾張守は高階為遠で、次いで丹後守源師俊が為遠と相博して尾張守となっており、永久二年四月三日季成の尾張守補任はなかったと述べた。『大日本史料』でも尾張守季成としているが、公卿補任以外の根拠はない。
 「国司一覧」には天仁元年正月の伯耆守為遠の尾張守遷任後、天永二年一二月一六日に源有兼が尾張守に現任していることを記すが、有兼はそれ以外の史料には尾張権守とある。また季成の補任後にも為遠の尾張守現任と丹後守との相博が確認できるので、五味氏の説が正しい。
 季範とその子に関する系図の記載は要検討であることを述べたが、なお具体的に述べる。季範については大治四年の蔵人所雑色のみで、従四位下叙位や国司補任は確認できない。その娘についても、「待賢門院女房大進局」については、系図の記載以外にそれを裏付ける史料が確認できない。「上西門院女房千秋尼」についても同様だが、こちらは範忠の叙爵後のことと考えられ、あるいは事実を反映しているかもしれない。範忠の叙爵後、兄弟姉妹の中央での活躍が本格化したのではないか。僧侶となった子のうち、長暹については一次史料が残り、八条院との関係があったことがわかるが、時期的には一一八〇年代以降である。季範の末娘は『尊卑分脈』では左馬頭源隆保朝臣母とあるが、藤原隆季の子隆保ではなく、源師隆の子従五位下師経の室で、その子が左馬頭正四位下隆保である。
 この前後の尾張守で待賢門院との関係が深いのは女院別当藤原敦兼で、元永二年一二月一五日に補任され五年間在任し、保延四年(一一三八)に六〇才で出家している。その子季兼・季行兄弟(母はともに顕季娘)も待賢門院との関係を有したが、季行はその妻藤原宗能の娘が得子(美福門院)の第三子姝子内親王(永治元=一一四一年一一月八日生)の乳母となったことで、美福門院別当となった。その庶子重季(後に以仁王の遺児北陸宮とともに活動)の母は、範忠と同じ源行遠の娘である。
 久安五年一〇月二六日に頼長の子師長が拝賀のため各所を訪れている。美福門院では院司武蔵守季行朝臣が取り次いだのに対して、新院(崇德)では院司備後守季兼朝臣雅取り次いだように、兄と弟で立場が異なっていた。

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