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2019年6月20日 (木)

頼朝妹坊門姫の名前の背景2

 次いで建久六年に前斎院範子が准三后待遇となった際に、杵築大社領は斎院領から範子領とされたと思われる。範子は同九年に即位した土御門天皇の准母とされ、皇后宮とされた。建永元年には、光隆の邸宅があり、範子邸も隣接して存在していたので、院号宣下により坊門院と呼ばれた。
 庄園の問題は後日詳細に述べることとして、頼朝の妹坊門姫は、幼少時に平治の乱で父を失った。頼朝の姉との説もあるが、角田文衛氏の説くように『吾妻鏡』の記載が何らかの理由で誤ったものであろう。すでに述べたように、義朝の母は藤原清隆の叔父忠清の娘であったが、結婚時には父は出家しており、従兄弟である藤原清隆の庇護にあり、義朝の叙爵・下野守補任を実現したのは清隆であった。平治の乱では妻の実家である熱田大宮司家は頼朝方とはなっていない。そうした中、三才前後であった姫は祖母の実質的実家である清隆の嫡子光隆の坊門亭で育てられたのであろう。清隆もなお健在であり、平治の乱後一旦解官された光隆の復帰や、杵築大社の再立券をサポートしたもの清隆であろう。もっと早く気づいてもよかったが、坊門院範子について調べた結果、ようやく結びついた。内蔵資忠が杵築大社神主補任について領家光隆への仲介を頼朝に依頼し、当時、造営が遅れている中、目代と神主に頼朝の推薦する人物を起用し、領家・国衙・幕府一体となった大社造営が実現し、新体制から五年目に遷宮が行われた。ただし、その関連史料は国造家にとっては残したくないものであり、承久の乱で出雲国在庁官人の多くが没落したことと相まって、関係史料は闇に葬られてしまった。

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