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2019年6月24日 (月)

藤原季綱をめぐって

 藤原南家実範の子季綱について情報を整理する。季綱の母は高階業敏の娘で、業敏の子業仲が実範の養子となっている。異母兄弟には藤原永範の祖父成季、熱田大宮司季範の父季兼がいる(ともに小野資通の娘が母)。季綱は成季(1025年頃生)とは年齢差があり、季兼(1044年生)と同世代と思われ、文章生時代には天喜4年(1056年)の殿上詩合に参加している。
 学問の家であり、大学頭・文章博士を務める一方で受領に補任されている。成季についてはその死亡をうけて中御門宗忠が「故実範朝臣男、為儒者経検非違使、為筑前・備前国司、秩満之後出家者」とコメントしている。併せて出家した嘉承二年三月の時点で八〇余才であったことも記している(『中右記』)。承暦四年(一〇八〇)には筑前守であることが確認できるが、この時点で五〇才半ばである。この後備前守を務めたはずであるが、関連して確認できるのは四〇才前後と思われる異母弟季綱が応徳三年(一〇八六)一〇月二〇日に備前守を重任し、寛治七年(一〇九三)七月一六日には源国明と相博して越後守に遷任したことだけである。備前権守や備前介に補任された可能性もあるが、備前守季綱時代の備前国知行国主であったのではないか。ただし、同時代の事例をみると、知行国主の上に白河院がいる(院分国)ことになる。国守が後に公卿に昇進した場合は受領としての任国が院分であったことが明記されるが、そうでない場合は除目の記録に明記されることは少ないので確認が難しい。
 季綱については、嘉保二年正月二八日に長門守に補任された記録があるが(魚魯愚抄)、これは康和元年正月になお越後守に見任していることと矛盾している。前者が従五位上に対して後者は従四位上であり、別人である。前者は藤原貞職の子季綱で、清隆の母がその姉妹である。
 季綱の子尹通は天永二年(一一〇九)から永久五年(一一一七)にかけて安芸守であったことが確認できるが、翌元永元年正月一八日には子尹経が叙爵と同時に白河院分の阿波守に補任されている。庄園への対応など実務は父尹通が行っており、知行国主であった。成経が筑前守から弟季綱を国守として備前国知行国主となったのと同様である。次いで尹経は安芸守に遷任しているが、その任期途中の保安三年に父伊通は死亡している。それにもかかわらず尹経は大治三年一二月に石見守藤原資盛が遷任するまで安芸守であった。これは安芸国が白河院分国であったためであろう。この文を書きながら狐につままれたような気分となったが、これが知行国・院分国の実態なのであろう。

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