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2019年6月28日 (金)

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏3

 なお黒谷郷地頭家については、建武四年五月に反幕府方に波多野彦六郎がみえ、暦応五年六月一八日には三隅城とその周辺の城への幕府方の攻撃を受け降参した国人として高津原(高津の誤りヵ)孫三郎とともに波多野彦三郎がみえる。石見国内では幕府方の攻勢が続いていたが、観応の擾乱で状況が一転し、しばらく反幕府方優位の状況が続く。
 そのきっかけをつくったのがそれまで幕府方の忠臣であった益田氏惣領兼忠が、反幕府方に転じたことである。兼忠と行動をともにしていた岩田胤時が兼忠の承判を受けた軍忠状によると、四月から五月初めまでは石見国内の反幕府方の拠点黒谷城を攻撃し、波多野彦七義秀を退治している。その後長門国内に入り八月一七日まで幕府方として転戦していた。それが二ヶ月半後の一一月三日には三隅城を包囲していた幕府方の高師泰陣を攻撃している。
 以上の点から黒谷郷波多野氏は反幕府方であったと思われる。康暦元年一〇月一一日には波多野五郎義秀が下黒谷内と美濃地内本知行分に対する吉田駿河太郎の押妨停止を求め、守護大内氏奉行人が義秀方への沙汰渡を奉行人に命じている。義秀は実基の孫実秀系に属し、その所領の中心は下黒谷で、美濃地内にも所領を有していたのであろう。
 波多野氏領が益田氏領になる中で、所持した文書も益田氏に渡されたが、文書(後に流出したものも含める)として残っているのは、下黒谷郷波多野氏と美濃地村(東方と西方の両方)波多野氏の文書である。文書が残っていない上黒谷郷には最終的に吉見氏の勢力が及んだのであろう。

 

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