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2019年6月28日 (金)

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏2

 黒谷郷は実基により更に分割して子に譲られていく。文永一〇年一〇月二一日には実基が孫実秀に下黒谷郷を譲っている。子実成(盛)は健在であったが、惣領として相続方針を示したものであろう。正応二年三月九日には実政が譲状を作成しているが、それに先立つ永仁三年七月二五日には関東下知状により、実秀が相続を安堵されている。実成-実秀は庶子であり、上黒谷郷を譲られた弥三郎実重が嫡子であったと思われる。
 美濃地村地頭家では実時が惣領であったが、延応二年三月九日に嫡子実村と兄弟だけでなく、後家とされた生阿にも所領が分割して譲られた。生阿領はその子と思われる重秀に譲られたが、実村領は嫡子道教とその弟と妹に譲られた。その娘は重秀と結婚し、生まれたのが政重であった。弘安一一年三月三日に政重は父重秀から所領を譲られたが、問題となったのは母の所領であった。実村の嫡子道教からすれば、妹への譲与は一期分であり、その死後は道教とその子に戻されるべきものであった。しかし実際には子政重が母から譲られたとして、これを更に自分の二人の娘賀子と真子に譲ってしまった。女子領は婚姻により他家領となる可能性もあり、道教の孫娘幸松丸が庶子家に一期分の返還を求めたものと思われる。康永四年二月二六日に賀子が正和五年一一月二九日安堵状に任せて美濃地村地頭職を安堵されている。このことから正和五年六月一七日の政重の死亡により、賀子が幕府ないしは六波羅に安堵を求め認められたことがわかる。
 美濃地村惣領地頭家でも正和五年五月九日に実村が死亡しており、その時点では返還を求める余裕がなかったのであろう。賀子・真子の側は正応二年九月二〇日に母の所領を譲られたことを主張し、幸松丸側は譲状が謀書だという事を主張したと思われる。
 こうした背景を持つ美濃地村東方一方地頭職について、高津長幸が、鎌倉幕府から外題安堵されていたことを根拠に直冬に訴え、それを認められた。長幸は一貫して反幕府方であり、賀子ではなく幸松丸側にあったと思われる。すなわち、幸松丸側との婚姻関係を通じて東方一方地頭職を得たのであろう。あるいは、幸松丸側が長幸に対して寄沙汰を行った可能性もある。一通の安堵状の背景には複雑な背景があった。

 

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