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2019年6月26日 (水)

播磨守藤原隆教について

 藤原隆教は忠隆の嫡子であったが、近衛天皇譲位の翌年七月の行幸に不参であったため左近衛佐を停任され、一〇月に還任したが、一二月五日に死亡している。白河院没後の新体制で、藤原長実の嫡子顕盛、家保の嫡子顕保とともに待賢門院別当に補任されたが、顕盛は鳥羽院が支援した庄園申請を上野守とともに白河院に働きかけて認めず停廃したことなどから、長実から譲られた修理大夫の座を短期間で失った。一旦は還任が認められたが、まもなく藤原基隆と交代させられた。家保が修理大夫を顕保に譲ろうとしたが、同母弟で鳥羽院の寵臣となった家成の反対により実現しなかった。いずれも鳥羽院と祖父白河院の対立が原因であった。
 この隆教について高橋正明氏は『清盛以前』の中で、永治元年一二月に崇德の子重仁が親王宣下をうけた際にその家司に補任されたとした。確かに系図では隆教に「播磨守」との注記が加えられている。ただし、永治二年七月に隆教を停任とした文書には「左兵衛佐」のみ記している。
 とりあえず根拠となった『今鏡』の記述をみると、「うちの御めのとごの、はりまのかみ、はゝきのかみなどいふ人ども、(女房名略)とりさたすべきよしうけ給はりて、つかうまつり」とある。隆教の母栄子が崇德天皇の乳母であったことから、播磨守=隆教としたのだろう。問題は「伯耆守」であり、藤原家保の子家長である。家長の母は不明だが、顕保・家成の母宗子もまた崇德天皇の乳母であった。とすると、播磨守=顕保の可能性もある。
 播磨守について確認すると、永治元年一一月二七日に忠隆が伊予守に遷任している。「公卿補任」には相傳(博ヵ)とあり、伊予守清隆と入れ替わったかにみえるが、清隆は一二月二日に伊予守を辞任して、子定隆を備中守に申任じている。忠隆の日付とのズレが気になるところであるが、当初に案に変更が加えられたのであろうか。清隆は一二月七日の近衛天皇即位により春宮亮を止められ、一三日には蔵人頭に補任された。
 康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文(高野山文書)には署判者として「播磨守」がみえるが、写しであり、花押の確認はできない。同二年三月一三日には「播磨守顕保」が石清水八幡宮臨時祭に使者として派遣されている。同三年正月二四日鳥羽院庁下文の署判者にも「播磨守」がみえるが、花押を確認すると清隆のものであり「播磨権守」を誤記したものであろう。前年の播磨守は署判の順番が清隆より後ろであり別人であろう。
 以上を総合的に判断すると、『今鏡』の記す播磨守は隆教ではなく、顕保であり、系図の記載は父家保が播磨守であったことから生じた誤りと思われる。

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