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2019年6月 5日 (水)

上島享氏の知行国制論から4

 上島氏は『中右記』永久四年一一月一六日条を引用して、忠実が尾張国の支配を白河院から認められたが、関白太政大臣が受領を兼ねるのは奇怪で世間体があるので、義理の弟である源師俊を国守としたとし、師俊は形式的に国守になったにすぎないとする。師俊についてはすでに述べたように摂関家家司であったがために忠実知行国の国守となったものであり、義理の弟かどうかは問題ではないし、形式的な国守ではなかった。
 尾張国は都と東国の中間に位置する重要な国で、忠実は師俊の重任について院に働きかけたが、認められるところとはならず、元永二年一二月一五日には院近臣で越後守である藤原敦兼が相博により尾張守に補任された。越後守の後任は師俊ではなく、源国能であった。国能は師俊が村上源氏俊房流であったのに対し、その弟顕房流である国信の子で、この時点で一四才であった。その兄弟には忠実と高陽院(勲子、後に改め泰子)に仕えた雅国や忠通の室でその子基実の母信子、基房の母俊子がいる。ただし、翌保安元年一一月に白河院に無断で鳥羽天皇への娘勲子入内を図ったことで、忠実は院から義絶されたため、越後守は三年後には院分国となり国守も藤原雅教(三才で父家政が死亡し、母方の祖父顕隆の庇護にあり、この時点では一一才であった)に交替している。尾張国も院近臣長実の子長親と顕盛が合計九年間国守となった。白河院の死亡により忠実が尾張国知行国主の座に復帰したのは長承三年(一一三四)であった。
 上島氏は一二世紀後半には国主への知行国付与を前提に国守が補任される事例が摂関家以外の貴族にもひろがるとして、その例として国主藤原光能のもとで藤原弘家が承安二年(一一七二)六月に紀伊守に補任された史料をあげ、国守は国主の近親者である必要もないとしている。ところが、ブログの記事で述べたように、弘家が知光とも呼ばれ、光能と武蔵国武士足立遠元の娘との間に生まれたことは調べればすぐにわかる。上島氏はそれをしないで、光能と弘家は親子ではないとした上で自らの根拠なき論を述べている。

 

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