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2019年6月30日 (日)

承久の乱以前の長野庄2

 康暦年間から明徳年間に至る大内氏内部の対立が、石見国人に与えた影響については拙稿で分析した通りである。前半の康暦から永徳の内戦で兼見は、通説とは異なり、大内義弘(幕府)方であった。これに対して福屋氏を中心とする満弘派との間で合戦が行われたが、両者の父弘世が康暦二年末に死亡したことを契機に停戦となり、和解が成立した。満弘派は福屋氏のように南北朝動乱で最後まで直冬方であった人々が中心であったと思われる。長益女子も貞和六年一二月に乙吉・土田両村惣領職を安堵されている。応安七年までは虫追氏領であった飯田郷(長野庄本郷)も、この前半戦後に文書を含めて兼見のものとなっている。前半戦で兼見が義弘方であった結果得たものである。満弘は石見国守護の地位を認められたが、和解の内容は満弘派の国人には不利な内容であった可能性が大きい。これが後半戦の原因の一つとなる。
 兼見が女子の祖父の養子となったとすると動乱初期のこととなるが、暦応三年から康永三年にかけての兼見の軍忠状からはそのような状況は確認できない。兼見が養子となったとの記載は後付けで系図に加筆されたものであり、事実ではなかったと思われる。ただし、「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村内検目録が残されており、この時点で乙吉氏の中に幕府方となった人物があったことは確実である。私見では益田兼世と子兼利が直冬方から幕府方への復帰を図ったことに同調するものであったが、両者は直冬方国人によって殺害され、その動きは封じ込められた。乙吉氏領の一部が三和氏領(豊田郷地頭内田氏関係者)となったのもこの時点であろう。
 長野庄の問題に戻ると、曽利大夫国久の子が豊田郷本下司国俊の養子となり実俊と名乗った。国俊は長野庄立券時の豊田郷下司であったが、それを継承したのは角井下司国高の子国直であった。国高は吉賀大夫とあるように豊田郷が含まれる吉賀郡内の所領も支配していたと思われる。国高と国俊の約束により国直が継承した。本来は国高が豊田郷下司であったが、それを兄弟である国俊に譲っていたのだろう。

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