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2019年6月30日 (日)

承久の乱以前の長野庄3

 次いで国直は物部季遠の子兼盛を聟としたが、兼盛は守護佐々木定綱と結んで、甥光平である美濃地・黒谷、市原、白上に介入した。光平は所領を父兼光から譲られていたが、兼盛は兼光の父光安の譲りを得たことを根拠とした。この結果、「白上六郎」と呼ばれた兼盛が白上郷の一部を得た可能性が高い。藤原氏田村来原家畧系によると、鎌倉初期に東国御家人田村資盛が那賀郡来原別府地頭となり、その子盛家がそれを継承するとともに、弟盛次に白上郷を譲っている。盛家が承久の乱の恩賞として得た白上郷を譲ったと思われる。盛家が得た白上郷とは、兼盛が光平から得たものであろう(白上村半分ヵ)。
 兼盛の義父国直は寿永元年九月四日に豊田郷下司となったが、その子国光と孫国久は名前のみで具体的記載がない。『源平盛衰記』には一の谷合戦に参陣した石見国関係者として「案主大夫」と「横川郡司」を記す。これについて「案主大夫」をその最初の音の一致のみで邑智郡「阿須那」の関係者に比定する長村祥知氏の説があるが、苦し紛れで検討にも値しない説である。系図で案主大夫とある益田氏惣領季兼に他ならない。
長村氏は石見国の多数派は反平家方で、平家方となったのは東部の一部武士であるとみているが、一旦、義仲から石見国押領使に補任された河合氏が、戦線を離脱して石見国に戻ったのは、国内に平家方が多く、所領の維持が困難となったためであろう。「横川郡司」については手がかりが少ないが、豊田郷下司となった国直の父が吉賀大夫と呼ばれていたことと、豊田郷の中心部分が横田であったことに注目したい。益田季兼とともに一の谷合戦に参加した国直は没落し、其跡が守護領となったと思われる。定綱は建久四年一〇月に石見国守護に補任されており、その時点で前任守護某から豊田郷を継承した。国直の聟兼盛が守護定綱と結んだ背景は以上の通りであり、父の所領の一部を得ようとしたのだろう。承久の乱後に美濃地・黒谷にも相模国御家人菖蒲氏が地頭に補任されており、美濃地・黒谷もまた兼盛の所領となった後に承久京方で没収され、菖蒲氏領となったと思われる。

 

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