koewokiku(HPへ)

« 上島享氏の知行国制論から5 | トップページ | 六月の近況 »

2019年6月 7日 (金)

淡路守平教盛と忠実

 平忠盛の子教盛は清盛、頼盛に次ぐ存在として中納言にまで進んでいる。その息子達は平家の滅亡と運命を共にしているが、日野資憲の娘との間に生まれた教子は藤原範季の室として高倉天皇の第四皇子(御鳥羽天皇)を育て、その娘重子は順徳天皇を産んでいる。
 教盛の母は藤原忠実の異母弟家隆の娘である。家隆は公卿にならず、丹波守・左京大夫を歴任した。生年は不明であるが、永長元年(一〇九六)正月五日に叙爵し、同年一二月二六日に元服している。同じ日に元服した花山院忠宗は寛治元年(一〇八七)生まれの一〇才であった。家隆も同年令とすると、忠実より九才下、家政より七才下となり、父師通が三八才で死亡した時点で一三才であったことになる。さらにはその娘を室とした平忠盛は家隆の九才下となる。家隆には待賢門院女房となった娘と皇嘉門院女房となった娘がいた。教盛は忠盛三三才時の子であるがその母家隆娘は二〇才前後であったと思われる。母方の祖父家隆はその三年前に死亡している。家隆の妻は忠実の第三子頼長の母の妹であり、家隆の娘は伯母の庇護下で待賢門院女房となったのではないか。
 教盛は久安四年(一一四八)四月二六日に二一才で叙爵し、仁平元年二月二日には父忠盛が播磨守を辞して教盛を淡路守に申しなしたが、淡路守はそれまでの知行国近江国と交換で忠実の知行国となっていた。この点について元木泰彦氏は五味文彦氏『平清盛』の書評の中で、教盛の外祖父が忠実の親族で近臣であったとするが、忠実の知行国の受領に任用されるにしては関係が希薄のように思われるとして、淡路国を忠盛の知行国の増加とは解釈できないかと疑問を呈している。家隆が兄忠実の近臣であるとは確認できなかったが(儀式で忠実の「手長」を務めていたが、これにより家臣であるとはならない)、教盛は父方のみならず母方を通しても忠実とつながっており、母方の曾祖父藤原盛実は忠実の近臣であった。元木氏もここまで確認すれば疑問は氷解したのではないか。とはいえ近江国と淡路国の相博は事実であり、元木氏の疑問は十分な根拠なきものであった。当方としても子を申し成した父=知行国主と考えていたが、そうとは限らないことを確認させられた。

 

« 上島享氏の知行国制論から5 | トップページ | 六月の近況 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 上島享氏の知行国制論から5 | トップページ | 六月の近況 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ