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2019年6月 5日 (水)

上島享氏の知行国制論から2

 白河院政後期には一院(白河院)分国とともに新院(鳥羽院)分国、女院(待賢門院)が数多くみられるようになる。従来の女院分国は一年限定でその国の収益を与えるものであったが、待賢門院分国は国司の任期である四年ないしは八年に及ぶもので、五味氏は知行国と同様の性格と得分を持つものに変わったとしている。上島氏は「一二世紀中葉には上皇・女院も知行国(院分国)を持つようになる」として注では女院分国の確実な初見は久安二年一一月一三日に確認できる美福門院(院号宣下は同五年八月三日)分国越前であるとする。この事例は五味氏が紹介済みで、五味氏はそこから進んで、美福門院分国の最も早い時期のものとして保延二年一月二二日に藤原俊盛が補任された備後国の存在を明らかにした。前年一二月四日に叡子内親王を産んだことに伴うものであろうが、三位に叙せられたのは同二年四月、女御となったのも体仁親王立太子と同時(保延五年八月一七日)であった。女院ではないが、実質的女院分国とでもいうべきものであった。また、俊盛は三ヶ月半後の保延二年五月一〇日には丹波守に遷任しており、後白河院政前期までの女院分国とは異なっている。新たなタイプの女院分国の最初は大治年間の待賢門院分国であった。こちらは崇德天皇即位の翌年=天治元年一一月二四日には院号宣下を受けていた。さらに長承二年六月二九日には忠実の娘勲子が入内しており、その分国も想定できる。女御ならびに皇后(この時泰子と改名)となったのは翌長承三年、院号宣下は美福門院宣下の直前となる保延五年七月二八日であった。こちらは摂関家が実家であり、摂関家知行国を女院分国に変更している例もある。
 大治四年七月に白河院が死亡して鳥羽院政が開始されると、一院分国はみられなくなる。正確には大治五年正月二八日に藤原公重が国守に補任された紀伊国が一院(鳥羽院)分国の最後であった。公重は徳大寺実能の子であり、父実能が知行国主であった。紀伊国はそれまでも院分国とされたことが何度かあった。保延四年正月二二日には藤原親能が後任の紀伊守に補任されているが、それに該当する人物を『尊卑分脈』で確認できなかった。
 これに対し、上島氏の述べているように後白河院政期に一院の分国が復活し、多くみられるようになる。現在確認できるのはその一部であるが、初見は応保元年一〇月二九日に藤原脩範が補任された美濃国で、以後も断続的に後白河院分国となっている。同年九月二三日には滋子が憲仁親王(高倉)を産んでおり、二条天皇派への対抗と、後白河院の庄園が少ないことで院分国を再開したのではないか。その補任状況からは知行国に近いものであったと考えられる。以下では個々の事例にコメントを加える。

 

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