koewokiku(HPへ)

« 上島享氏の知行国制論から4 | トップページ | 淡路守平教盛と忠実 »

2019年6月 5日 (水)

上島享氏の知行国制論から5

 上島氏は続いて、これまた当ブログで紹介した後白河院の寵臣で近江守であった藤原実範(教)の遷任問題(承安二年閏一二月)をとり上げている。実教は鳥羽院の寵臣家成の子であったが、五才で父を亡くしたため、徳大寺実能の子で家成の娘を妻とする公親の猶子となった。ところが一〇才で公親も死亡してしまった。それが仁安三年(一一六八)一二月一六日には一九才で近江守に補任された。上島氏は実教の上に知行国主はおらず、実教は受領収益を自ら取得でき、構造上は知行国と変わらないため、遷任(相博ヵ)先として藤原忠雅が知行国主である信濃国と藤原朝方が国主である出雲国が候補となったとしている。これについて、すでにブログでその論を詳細に検討した元木泰雄氏は、近江国は実教の一三才年上の兄成親の知行国であったとする。その根拠となったのは承安二年七月二一日に成親が国司の遷任を含む五つの勧賞を得た(『玉葉』)ことであり、その遷任とは前年一二月末の時点で現任が確認できる弟盛頼の三河守遷任と承安二年閏一二月七日の実教の信濃守遷任であろうとしている。この元木氏の説は正しい。信濃国主忠雅は父忠宗を早くに亡くしたため母の兄である家成のもとで育っており、一四才下の成親、二六才下の実教とは親しい間柄であった。
 野口実氏「院政期における伊勢平氏庶流―「平家」論の前提作業」(京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要第16号)は興味深い分析であったが、ただ一点、白河院近臣藤原資盛(北面で安芸・石見守を歴任する一方で、院の死亡時に立ち会っている)を伊勢平氏の一流とした点には驚かされた。野口氏も良く知っている分野とそうでない分野があり、それゆえ資盛を誤ったのだろう。ただし、野口氏のもとにはすぐに「藤原」の誤りとのコメントが寄せられたのであろう。次号の「院政期における伊勢平氏庶流(補遺)」で新たな実例を紹介・分析するとともに、訂正を加えている。誰でも勘違いはあるのであり、それが修正されれば良いのである。上島氏の場合も原論文に大幅に加筆して論文集に収録しているにもかかわらず、初歩的なミスがかなりあるのが問題である。なにより上島氏に意見する人がいないのが最大の問題である。

 

« 上島享氏の知行国制論から4 | トップページ | 淡路守平教盛と忠実 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 上島享氏の知行国制論から4 | トップページ | 淡路守平教盛と忠実 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ