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2019年6月20日 (木)

頼朝妹坊門姫の名前の背景1

 この人物については以前述べたことがあるが、今回はその通称「坊門姫」の由来が判明したので、以下で述べたい。そのきっかけは、出雲大社領が藤原光隆を領家として再立券された際の本家を検討したことであった。本家の関係文書は、建保二年八月日土御門院庁下文が唯一のものである。そこには「近来又為領家裁、当時已為庁分御領」とあり、領家の成立と本家の成立に時間差があるようにも思えるが、領家藤原光隆と本家土御門院庁の間の時間差にすぎない。それととともに、本家の存在感の薄さが感じられるのである。再立券が行われた永暦年間の時点で、本家なしに立券することは考えられない。
 土御門が退位して院庁を開設した承元四年(一二一〇)に、その准母坊門院(範子内親王)が死亡している。そしてこの女性が幼少期に藤原光隆の邸宅で育てられていたとなれば、大社領本家職が坊門院から土御門へ譲与された可能性は大きい。範子は高倉天皇の娘であり永暦年間にはまだ生まれていないが、範子は前賀茂斎院頌子内親王が出家した際には、その邸宅などの財産を譲られている。斎院領としては紀伊国南辺庄や安芸国安麻庄について斎院庁や前斎院庁下文が出されている。
 永暦年間の賀茂斎院は後白河院の娘式子内親王であり、この時期に領家光隆が斎院に所領を寄進したが、領家が本所であり、本家は得分収入が主な権限であったと思われる。そして猫間中納言と言われた光隆が幼少時に坊門亭で養育した範子内親王が治承二年(一一七八)に二才で斎院(猫間斎院と呼ばれた)となった。範子は父高倉院が治承五年(一一八一)正月に死亡により斎院は退下したが、次の斎院礼子(御鳥羽院娘)が斎院の卜定されたのは元久元年(一二〇四)であった。

 

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