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2019年6月28日 (金)

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏1

 一〇年ほど前であろうか、一通の文書の真偽について質問を受けた。その文書とは現在は島根県立古代出雲歴史博物館所蔵となっている貞和七年三月二七日足利猶冬下文であった。所有者から吉見氏の歴史のHPを作成している人問い合わせがあった。そのHPの方には、高津氏が吉見氏の一族でないことを連絡したことがあり、当方に質問された。
 第一感で気になったのは「任関東外題」との表現であった。本来なら、安堵を求めた高津長幸が提出した具書に基づき、より具体的な文言が書かれているはずと思った。そこで、相談しても良いことを確認した上で史料編纂所の久留島・西田両氏に画像データを送付した。西田氏からはその前後の直冬の文書と花押・字体がよく煮ており、表現は問題とするには足らないとのことであった。
 もう一つ驚かせられたのは、東国御家人菖蒲氏が承久新恩で得た「美濃地村」の東方一方地頭職の安堵を国御家人である長幸が求めていたことである。長幸の母ないしは祖母が菖蒲氏出身で、相続した所領を長幸ないしはその父に譲っておれば問題はないが、長門探題を滅ぼした立役者の一人である長幸と東国御家人の婚姻関係がピントこなかったのである。実際には石見国でも三隅氏の庶子永安氏が娘聟を、駿河国御家人で安芸国大朝新庄に入部していた吉川氏から迎えており、不思議なことではない。
 今年になり「益田實氏所蔵文書」が紹介された。萩藩家老を務めた益田氏の分家に分け与えられていた文書であるが、そこにも関連する文書がみられ、当該の直冬下文もこの中から流出したと考えられる。戦前には忠臣の鏡とされた高津長幸の関連文書であり高く売れたのであろか。
 久留島氏が紹介された長野庄と益田氏関係系図の中に、一二世紀半ばすぎに長野庄の(恐らく二度目の)寄進・立券がされた際の下司八人を記したメモが含まれていた。藤原国長の子国俊が「豊田郷本下司」であった。その後、子国広と孫国弘が継承したようであるが、承久の乱で没収され、相模国御家人波多野氏の一族菖蒲実盛に恩賞として与えられた。系図には美濃地村地頭職の相続上の対立をめぐって作成されたものがあり、これに『系図纂要』『諸家系図纂』のデータを加えて分析していく。以下では菖蒲氏ではなく波多野氏を使用。
 実盛は延応二年三月九日に譲状を作成し、嫡子実基に黒谷郷地頭職を譲り、美濃地村地頭職は弟である実時と実高に分けて譲った。美濃地村の譲状には嫡子三郎実基も署判を加えていた。次いで仁治三年に実盛が死亡したようで、一〇月二三日に将軍家政所下文により譲与が安堵された。

 

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