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2019年6月 5日 (水)

上島享氏の知行国制論から3

 上島氏は『中右記」元永二年正月二四日条(院と忠実との間で美濃・備後国沙汰について意見が交換されたが、密事により記し置かずと記主中御門宗忠が述べている)を根拠に美濃国と備後国が関白忠実の知行国となったとし、美濃守藤原家長は摂関家家司と考えられるとするが、そのようなことを示す史料は存在しない。家長は一月一〇日に白河院判官代と鳥羽天皇蔵人に補任されている(『中右記』)。そして二年一月二四日条の続きの部分をみると、美濃守に家長が院分として補任されたことが記されているが(家長は鳥羽院庁下文の署判者として二〇回以上みえ、異母弟家成と遜色ない。回数は槙道雄氏の論文による)、備後守は交替がなかった。上島氏が備後守に補任されたとした藤原季通は忠実の従兄弟とする。確かに忠実の母全子と季通の父宗通は兄弟である。他の兄弟が公卿となったのに、季通のみ前備後守であったことを哀れんだ忠実の子頼長から、永治二年正月の除目で坊官(東宮傳)賞を譲られて季通が正四位下に叙せられている。問題なのは季通が七年前の天永三年正月に備後守に補任されていることである。年齢は同母兄と同母弟(公卿となったため生年が判明)からして両者と二才違いの一八才であったと思われる。季通はそれに先立ち、嘉承元年に前任者が辞職した跡に一二才で美濃守に補任され、一期四年を務めたと思われる。
 宗通と藤原顕季の娘の間に生まれた五人の男子の中で長子信通と四子重通は受領経験がない。次子伊通(三河)と五子成通(備中)はともに初任の受領は院分(父宗通が知行国主)であった。備後守季通は公卿にならなかったため『公卿補任』に記録は残っていないが、美濃国と備後国は院分・知行国主宗通のもとの受領であったと思われる。前任者源忠高の在任が二期八年に及んだため、美濃守の交替は確実であり、白河院は院分国に、忠実は知行国にしたい希望があった。忠実は美濃を院に譲る代わりに、季通の在任が七年となった備後守を希望したのだろうが、結局今回は断念したのではないか。

 

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