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2019年6月30日 (日)

承久の乱までの長野庄1

 長野庄に関する新たな系図(以下では新系図)が久留島氏により紹介・分析された事を受け、検討していく。長野庄と大家庄ではその構成単位の所領(郷)の下司(後に地頭)とともに、惣政所(長野庄)・惣公文(大家庄)が存在し、郷務への支配権を有していた。大家庄では後には大家本郷地頭であった藤原氏が惣公文職を得るようになるが、長野庄では惣政所が庄内の郷の下司職の一部についても支配するようになる。応安七年七月二八日には預所卜部仲光が虫追政国の子に対してその支配を安堵しているが、永徳三年二月一五日には将軍義満御判御教書により益田越中入道祥兼が、虫追氏の中心所領である飯田郷と乙吉氏領益田庄内乙吉・土田両村の支配を認められている。
 足利直冬方から幕府方に転じた兼見(祥兼)が、貞治五年に石見国守護大内氏に安堵を求めたのは、本領①益田本郷、②東北両山道、③弥富名、④伊甘郷、⑤宅野別符地頭職であった。大内氏家臣(守護代ヵ)掃部助高弘が兼見の当知行を確認したとして、同年一一月一八日に大内氏奉行人に挙状を提出している。①②⑤は系図で兼見の従兄弟とされる兼忠(系図では兼直)の段階ですでにその支配を認められていたものである。③④は兼見の曾祖母阿忍の所領であった。
 これに対して、応安四年には永安周防入道祥永が、益田庄内弥富名下村半分地頭職に対する兼見の押妨を大内氏に訴え、裁判が行われた。今回、久留島氏が紹介した新系図にはこの裁判のために両者が作成したものが含まれているが、この問題については当座は久留島氏のコメントを参照してもらうこととし、後考を期したい。
 新系図には「乙吉土田相伝のけいつ」が含まれている。そこには益田庄立庄時の人物である国久から乙吉十郎(長益)女子までを記し、さらに兼見が女子の祖父の代に養子となったことを記しているが、久留島氏はこれが事実を反映している可能性を指摘している。明白なのは、長益女子が応安元年に乙吉・土田村田畠屋敷への押妨を三和賀世丸から訴えられている点とこの文書を含めた乙吉・土田関係文書と所領を永徳三年までには兼見が入手し、幕府からその支配を認められたことである。

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