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2019年6月

2019年6月30日 (日)

承久の乱以前の長野庄5

 萩博物館所蔵「周布氏系図」には周布兼定領安富郷を譲られ、後に益田兼久の妻となった幸寿に関する注記で、夫兼久が兄兼長の早世を受けて益田氏惣領職と所領を継承したことと、幸寿が安富郷を二男彦三郎兼幸に譲ったことが記されているが、「石見国益田庄御旧封古事記」の記事で述べたように、兼長に続いて兼久も間もなく死亡したと考えられ、兼幸は鎌倉末~南北朝動乱前期に安富郷地頭としてみえるが、その所領は祖母連阿から譲られたとしており、兼久と兼幸に関する記述はともに事実ではない。兼幸の記述は疑問としながら、兼久に関しては一度は事実と評価したが訂正する。
 治承・寿永の乱と承久の乱が長野庄に与えた影響をまとめると、前者では一の谷合戦に参陣した「案主大夫」=益田氏惣領季兼とその一族、「横川郡司」=豊田郷下司国直(吉賀大夫の呼称を父国高から継承していた可能性あり)とその一族を中心とする平家方の所領が兼栄・兼高父子と東国御家人に与えられた。一方で、初代であったかは不明であるが、建久四年に守護に補任された佐々木定綱は守護領(西部では豊田郷と吉賀郡内、東部では稲用郷等)を拠点として武士の組織化を図った。
 承久の乱では知行国主源定通と守護佐々木広綱が京方であったが、定通は北条義時の娘を妻としており、消極的な京方に留まった。守護による国御家人の組織化も一部に留まった。現時点で所領没収が確認出来るのは、長野庄内白上(一部、田村盛家→盛次)、美濃地黒谷(菖蒲実盛)、豊田郷(内田宗茂)、那賀郡貞松名(内田宗茂)・宇津郷(越生有政)、安濃郡稲用郷(守護某)、邑智郡桜井庄(土屋氏)であり、吉賀郡内の所領にも可能性がある。

承久の乱以前の長野庄4

 長野庄本郷とされた飯田郷が益田兼栄領となったのはいつであろうか。本郷下司であった物部季遠死亡した後、本郷はその妻(後家)をへて娘に受け継がれた。娘の兄弟光安は母への不孝により周防国等国外を経廻後、参洛して領家に奉公した労で最初に市原・白上下司に補任され、次いで長寛三年四月三日には屋敷、自作田畠と美乃地・黒谷下司にも補任された。光安の姉妹はその縁から領家関係者を聟に迎え、子仲広が生まれた。一方、益田兼栄が長寛二年正月二七日には本郷(飯田郷)下司に補任されたとしている。
 兼栄は一般的な益田氏系図では益田氏惣領国兼の孫とされるが、実際には国兼は安富郷下司に補任されていた庶子であり、その子兼栄も同様である。実際に長野庄本郷(飯田)に対する兼栄の支配が確立するのは治承・寿永の乱後であろう。惣領季兼が一の谷合戦で平家方として参陣したのに対して、国内に留まっていた庶子の兼栄・兼高父子はいち早く幕府方となり石見国押領使に補任され、国内と出雲国の平家方武士の追討にあたった。その恩賞して得たのが益田氏惣領を含む国内の平家方武士領であった。兼季領の多くが兼栄以来三代知行で幕府から地頭に補任されたものであった。
 承久の乱では石見国守護であった定綱の子広綱が京方により没落している。兼盛も広綱とともに没落したと思われる。兼盛跡白上半分は来原別府地頭田村氏領となり、広綱領豊田郷は駿河国御家人内田氏領となった。これに対して長野庄内の他の所領では東国御家人新地頭に補任される事態にはならなかったと思われる。得屋郷地頭となった武蔵七党の丹党に属する岩田氏の系図は岩田五郎三郎胤村から始まっている。益田氏と世代数を比較すると、胤村は益田兼胤の所領没収により、得屋郷を与えられた可能性が高い。飯田郷は兼季-兼時-兼久をへて兼胤の代に没収され、長野庄惣政所源氏領となったと思われる。安富郷は周布氏領であったこともあり、兼胤には譲られず没収は免れた。

承久の乱以前の長野庄3

 次いで国直は物部季遠の子兼盛を聟としたが、兼盛は守護佐々木定綱と結んで、甥光平である美濃地・黒谷、市原、白上に介入した。光平は所領を父兼光から譲られていたが、兼盛は兼光の父光安の譲りを得たことを根拠とした。この結果、「白上六郎」と呼ばれた兼盛が白上郷の一部を得た可能性が高い。藤原氏田村来原家畧系によると、鎌倉初期に東国御家人田村資盛が那賀郡来原別府地頭となり、その子盛家がそれを継承するとともに、弟盛次に白上郷を譲っている。盛家が承久の乱の恩賞として得た白上郷を譲ったと思われる。盛家が得た白上郷とは、兼盛が光平から得たものであろう(白上村半分ヵ)。
 兼盛の義父国直は寿永元年九月四日に豊田郷下司となったが、その子国光と孫国久は名前のみで具体的記載がない。『源平盛衰記』には一の谷合戦に参陣した石見国関係者として「案主大夫」と「横川郡司」を記す。これについて「案主大夫」をその最初の音の一致のみで邑智郡「阿須那」の関係者に比定する長村祥知氏の説があるが、苦し紛れで検討にも値しない説である。系図で案主大夫とある益田氏惣領季兼に他ならない。
長村氏は石見国の多数派は反平家方で、平家方となったのは東部の一部武士であるとみているが、一旦、義仲から石見国押領使に補任された河合氏が、戦線を離脱して石見国に戻ったのは、国内に平家方が多く、所領の維持が困難となったためであろう。「横川郡司」については手がかりが少ないが、豊田郷下司となった国直の父が吉賀大夫と呼ばれていたことと、豊田郷の中心部分が横田であったことに注目したい。益田季兼とともに一の谷合戦に参加した国直は没落し、其跡が守護領となったと思われる。定綱は建久四年一〇月に石見国守護に補任されており、その時点で前任守護某から豊田郷を継承した。国直の聟兼盛が守護定綱と結んだ背景は以上の通りであり、父の所領の一部を得ようとしたのだろう。承久の乱後に美濃地・黒谷にも相模国御家人菖蒲氏が地頭に補任されており、美濃地・黒谷もまた兼盛の所領となった後に承久京方で没収され、菖蒲氏領となったと思われる。

 

承久の乱以前の長野庄2

 康暦年間から明徳年間に至る大内氏内部の対立が、石見国人に与えた影響については拙稿で分析した通りである。前半の康暦から永徳の内戦で兼見は、通説とは異なり、大内義弘(幕府)方であった。これに対して福屋氏を中心とする満弘派との間で合戦が行われたが、両者の父弘世が康暦二年末に死亡したことを契機に停戦となり、和解が成立した。満弘派は福屋氏のように南北朝動乱で最後まで直冬方であった人々が中心であったと思われる。長益女子も貞和六年一二月に乙吉・土田両村惣領職を安堵されている。応安七年までは虫追氏領であった飯田郷(長野庄本郷)も、この前半戦後に文書を含めて兼見のものとなっている。前半戦で兼見が義弘方であった結果得たものである。満弘は石見国守護の地位を認められたが、和解の内容は満弘派の国人には不利な内容であった可能性が大きい。これが後半戦の原因の一つとなる。
 兼見が女子の祖父の養子となったとすると動乱初期のこととなるが、暦応三年から康永三年にかけての兼見の軍忠状からはそのような状況は確認できない。兼見が養子となったとの記載は後付けで系図に加筆されたものであり、事実ではなかったと思われる。ただし、「文和二年」一〇月五日乙吉・土田村内検目録が残されており、この時点で乙吉氏の中に幕府方となった人物があったことは確実である。私見では益田兼世と子兼利が直冬方から幕府方への復帰を図ったことに同調するものであったが、両者は直冬方国人によって殺害され、その動きは封じ込められた。乙吉氏領の一部が三和氏領(豊田郷地頭内田氏関係者)となったのもこの時点であろう。
 長野庄の問題に戻ると、曽利大夫国久の子が豊田郷本下司国俊の養子となり実俊と名乗った。国俊は長野庄立券時の豊田郷下司であったが、それを継承したのは角井下司国高の子国直であった。国高は吉賀大夫とあるように豊田郷が含まれる吉賀郡内の所領も支配していたと思われる。国高と国俊の約束により国直が継承した。本来は国高が豊田郷下司であったが、それを兄弟である国俊に譲っていたのだろう。

承久の乱までの長野庄1

 長野庄に関する新たな系図(以下では新系図)が久留島氏により紹介・分析された事を受け、検討していく。長野庄と大家庄ではその構成単位の所領(郷)の下司(後に地頭)とともに、惣政所(長野庄)・惣公文(大家庄)が存在し、郷務への支配権を有していた。大家庄では後には大家本郷地頭であった藤原氏が惣公文職を得るようになるが、長野庄では惣政所が庄内の郷の下司職の一部についても支配するようになる。応安七年七月二八日には預所卜部仲光が虫追政国の子に対してその支配を安堵しているが、永徳三年二月一五日には将軍義満御判御教書により益田越中入道祥兼が、虫追氏の中心所領である飯田郷と乙吉氏領益田庄内乙吉・土田両村の支配を認められている。
 足利直冬方から幕府方に転じた兼見(祥兼)が、貞治五年に石見国守護大内氏に安堵を求めたのは、本領①益田本郷、②東北両山道、③弥富名、④伊甘郷、⑤宅野別符地頭職であった。大内氏家臣(守護代ヵ)掃部助高弘が兼見の当知行を確認したとして、同年一一月一八日に大内氏奉行人に挙状を提出している。①②⑤は系図で兼見の従兄弟とされる兼忠(系図では兼直)の段階ですでにその支配を認められていたものである。③④は兼見の曾祖母阿忍の所領であった。
 これに対して、応安四年には永安周防入道祥永が、益田庄内弥富名下村半分地頭職に対する兼見の押妨を大内氏に訴え、裁判が行われた。今回、久留島氏が紹介した新系図にはこの裁判のために両者が作成したものが含まれているが、この問題については当座は久留島氏のコメントを参照してもらうこととし、後考を期したい。
 新系図には「乙吉土田相伝のけいつ」が含まれている。そこには益田庄立庄時の人物である国久から乙吉十郎(長益)女子までを記し、さらに兼見が女子の祖父の代に養子となったことを記しているが、久留島氏はこれが事実を反映している可能性を指摘している。明白なのは、長益女子が応安元年に乙吉・土田村田畠屋敷への押妨を三和賀世丸から訴えられている点とこの文書を含めた乙吉・土田関係文書と所領を永徳三年までには兼見が入手し、幕府からその支配を認められたことである。

2019年6月28日 (金)

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏3

 なお黒谷郷地頭家については、建武四年五月に反幕府方に波多野彦六郎がみえ、暦応五年六月一八日には三隅城とその周辺の城への幕府方の攻撃を受け降参した国人として高津原(高津の誤りヵ)孫三郎とともに波多野彦三郎がみえる。石見国内では幕府方の攻勢が続いていたが、観応の擾乱で状況が一転し、しばらく反幕府方優位の状況が続く。
 そのきっかけをつくったのがそれまで幕府方の忠臣であった益田氏惣領兼忠が、反幕府方に転じたことである。兼忠と行動をともにしていた岩田胤時が兼忠の承判を受けた軍忠状によると、四月から五月初めまでは石見国内の反幕府方の拠点黒谷城を攻撃し、波多野彦七義秀を退治している。その後長門国内に入り八月一七日まで幕府方として転戦していた。それが二ヶ月半後の一一月三日には三隅城を包囲していた幕府方の高師泰陣を攻撃している。
 以上の点から黒谷郷波多野氏は反幕府方であったと思われる。康暦元年一〇月一一日には波多野五郎義秀が下黒谷内と美濃地内本知行分に対する吉田駿河太郎の押妨停止を求め、守護大内氏奉行人が義秀方への沙汰渡を奉行人に命じている。義秀は実基の孫実秀系に属し、その所領の中心は下黒谷で、美濃地内にも所領を有していたのであろう。
 波多野氏領が益田氏領になる中で、所持した文書も益田氏に渡されたが、文書(後に流出したものも含める)として残っているのは、下黒谷郷波多野氏と美濃地村(東方と西方の両方)波多野氏の文書である。文書が残っていない上黒谷郷には最終的に吉見氏の勢力が及んだのであろう。

 

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏2

 黒谷郷は実基により更に分割して子に譲られていく。文永一〇年一〇月二一日には実基が孫実秀に下黒谷郷を譲っている。子実成(盛)は健在であったが、惣領として相続方針を示したものであろう。正応二年三月九日には実政が譲状を作成しているが、それに先立つ永仁三年七月二五日には関東下知状により、実秀が相続を安堵されている。実成-実秀は庶子であり、上黒谷郷を譲られた弥三郎実重が嫡子であったと思われる。
 美濃地村地頭家では実時が惣領であったが、延応二年三月九日に嫡子実村と兄弟だけでなく、後家とされた生阿にも所領が分割して譲られた。生阿領はその子と思われる重秀に譲られたが、実村領は嫡子道教とその弟と妹に譲られた。その娘は重秀と結婚し、生まれたのが政重であった。弘安一一年三月三日に政重は父重秀から所領を譲られたが、問題となったのは母の所領であった。実村の嫡子道教からすれば、妹への譲与は一期分であり、その死後は道教とその子に戻されるべきものであった。しかし実際には子政重が母から譲られたとして、これを更に自分の二人の娘賀子と真子に譲ってしまった。女子領は婚姻により他家領となる可能性もあり、道教の孫娘幸松丸が庶子家に一期分の返還を求めたものと思われる。康永四年二月二六日に賀子が正和五年一一月二九日安堵状に任せて美濃地村地頭職を安堵されている。このことから正和五年六月一七日の政重の死亡により、賀子が幕府ないしは六波羅に安堵を求め認められたことがわかる。
 美濃地村惣領地頭家でも正和五年五月九日に実村が死亡しており、その時点では返還を求める余裕がなかったのであろう。賀子・真子の側は正応二年九月二〇日に母の所領を譲られたことを主張し、幸松丸側は譲状が謀書だという事を主張したと思われる。
 こうした背景を持つ美濃地村東方一方地頭職について、高津長幸が、鎌倉幕府から外題安堵されていたことを根拠に直冬に訴え、それを認められた。長幸は一貫して反幕府方であり、賀子ではなく幸松丸側にあったと思われる。すなわち、幸松丸側との婚姻関係を通じて東方一方地頭職を得たのであろう。あるいは、幸松丸側が長幸に対して寄沙汰を行った可能性もある。一通の安堵状の背景には複雑な背景があった。

 

美濃地・黒谷郷地頭波多野氏1

 一〇年ほど前であろうか、一通の文書の真偽について質問を受けた。その文書とは現在は島根県立古代出雲歴史博物館所蔵となっている貞和七年三月二七日足利猶冬下文であった。所有者から吉見氏の歴史のHPを作成している人問い合わせがあった。そのHPの方には、高津氏が吉見氏の一族でないことを連絡したことがあり、当方に質問された。
 第一感で気になったのは「任関東外題」との表現であった。本来なら、安堵を求めた高津長幸が提出した具書に基づき、より具体的な文言が書かれているはずと思った。そこで、相談しても良いことを確認した上で史料編纂所の久留島・西田両氏に画像データを送付した。西田氏からはその前後の直冬の文書と花押・字体がよく煮ており、表現は問題とするには足らないとのことであった。
 もう一つ驚かせられたのは、東国御家人菖蒲氏が承久新恩で得た「美濃地村」の東方一方地頭職の安堵を国御家人である長幸が求めていたことである。長幸の母ないしは祖母が菖蒲氏出身で、相続した所領を長幸ないしはその父に譲っておれば問題はないが、長門探題を滅ぼした立役者の一人である長幸と東国御家人の婚姻関係がピントこなかったのである。実際には石見国でも三隅氏の庶子永安氏が娘聟を、駿河国御家人で安芸国大朝新庄に入部していた吉川氏から迎えており、不思議なことではない。
 今年になり「益田實氏所蔵文書」が紹介された。萩藩家老を務めた益田氏の分家に分け与えられていた文書であるが、そこにも関連する文書がみられ、当該の直冬下文もこの中から流出したと考えられる。戦前には忠臣の鏡とされた高津長幸の関連文書であり高く売れたのであろか。
 久留島氏が紹介された長野庄と益田氏関係系図の中に、一二世紀半ばすぎに長野庄の(恐らく二度目の)寄進・立券がされた際の下司八人を記したメモが含まれていた。藤原国長の子国俊が「豊田郷本下司」であった。その後、子国広と孫国弘が継承したようであるが、承久の乱で没収され、相模国御家人波多野氏の一族菖蒲実盛に恩賞として与えられた。系図には美濃地村地頭職の相続上の対立をめぐって作成されたものがあり、これに『系図纂要』『諸家系図纂』のデータを加えて分析していく。以下では菖蒲氏ではなく波多野氏を使用。
 実盛は延応二年三月九日に譲状を作成し、嫡子実基に黒谷郷地頭職を譲り、美濃地村地頭職は弟である実時と実高に分けて譲った。美濃地村の譲状には嫡子三郎実基も署判を加えていた。次いで仁治三年に実盛が死亡したようで、一〇月二三日に将軍家政所下文により譲与が安堵された。

 

2019年6月26日 (水)

播磨守藤原隆教について

 藤原隆教は忠隆の嫡子であったが、近衛天皇譲位の翌年七月の行幸に不参であったため左近衛佐を停任され、一〇月に還任したが、一二月五日に死亡している。白河院没後の新体制で、藤原長実の嫡子顕盛、家保の嫡子顕保とともに待賢門院別当に補任されたが、顕盛は鳥羽院が支援した庄園申請を上野守とともに白河院に働きかけて認めず停廃したことなどから、長実から譲られた修理大夫の座を短期間で失った。一旦は還任が認められたが、まもなく藤原基隆と交代させられた。家保が修理大夫を顕保に譲ろうとしたが、同母弟で鳥羽院の寵臣となった家成の反対により実現しなかった。いずれも鳥羽院と祖父白河院の対立が原因であった。
 この隆教について高橋正明氏は『清盛以前』の中で、永治元年一二月に崇德の子重仁が親王宣下をうけた際にその家司に補任されたとした。確かに系図では隆教に「播磨守」との注記が加えられている。ただし、永治二年七月に隆教を停任とした文書には「左兵衛佐」のみ記している。
 とりあえず根拠となった『今鏡』の記述をみると、「うちの御めのとごの、はりまのかみ、はゝきのかみなどいふ人ども、(女房名略)とりさたすべきよしうけ給はりて、つかうまつり」とある。隆教の母栄子が崇德天皇の乳母であったことから、播磨守=隆教としたのだろう。問題は「伯耆守」であり、藤原家保の子家長である。家長の母は不明だが、顕保・家成の母宗子もまた崇德天皇の乳母であった。とすると、播磨守=顕保の可能性もある。
 播磨守について確認すると、永治元年一一月二七日に忠隆が伊予守に遷任している。「公卿補任」には相傳(博ヵ)とあり、伊予守清隆と入れ替わったかにみえるが、清隆は一二月二日に伊予守を辞任して、子定隆を備中守に申任じている。忠隆の日付とのズレが気になるところであるが、当初に案に変更が加えられたのであろうか。清隆は一二月七日の近衛天皇即位により春宮亮を止められ、一三日には蔵人頭に補任された。
 康治元年一二月一三日鳥羽院庁下文(高野山文書)には署判者として「播磨守」がみえるが、写しであり、花押の確認はできない。同二年三月一三日には「播磨守顕保」が石清水八幡宮臨時祭に使者として派遣されている。同三年正月二四日鳥羽院庁下文の署判者にも「播磨守」がみえるが、花押を確認すると清隆のものであり「播磨権守」を誤記したものであろう。前年の播磨守は署判の順番が清隆より後ろであり別人であろう。
 以上を総合的に判断すると、『今鏡』の記す播磨守は隆教ではなく、顕保であり、系図の記載は父家保が播磨守であったことから生じた誤りと思われる。

2019年6月24日 (月)

藤原季綱をめぐって

 藤原南家実範の子季綱について情報を整理する。季綱の母は高階業敏の娘で、業敏の子業仲が実範の養子となっている。異母兄弟には藤原永範の祖父成季、熱田大宮司季範の父季兼がいる(ともに小野資通の娘が母)。季綱は成季(1025年頃生)とは年齢差があり、季兼(1044年生)と同世代と思われ、文章生時代には天喜4年(1056年)の殿上詩合に参加している。
 学問の家であり、大学頭・文章博士を務める一方で受領に補任されている。成季についてはその死亡をうけて中御門宗忠が「故実範朝臣男、為儒者経検非違使、為筑前・備前国司、秩満之後出家者」とコメントしている。併せて出家した嘉承二年三月の時点で八〇余才であったことも記している(『中右記』)。承暦四年(一〇八〇)には筑前守であることが確認できるが、この時点で五〇才半ばである。この後備前守を務めたはずであるが、関連して確認できるのは四〇才前後と思われる異母弟季綱が応徳三年(一〇八六)一〇月二〇日に備前守を重任し、寛治七年(一〇九三)七月一六日には源国明と相博して越後守に遷任したことだけである。備前権守や備前介に補任された可能性もあるが、備前守季綱時代の備前国知行国主であったのではないか。ただし、同時代の事例をみると、知行国主の上に白河院がいる(院分国)ことになる。国守が後に公卿に昇進した場合は受領としての任国が院分であったことが明記されるが、そうでない場合は除目の記録に明記されることは少ないので確認が難しい。
 季綱については、嘉保二年正月二八日に長門守に補任された記録があるが(魚魯愚抄)、これは康和元年正月になお越後守に見任していることと矛盾している。前者が従五位上に対して後者は従四位上であり、別人である。前者は藤原貞職の子季綱で、清隆の母がその姉妹である。
 季綱の子尹通は天永二年(一一〇九)から永久五年(一一一七)にかけて安芸守であったことが確認できるが、翌元永元年正月一八日には子尹経が叙爵と同時に白河院分の阿波守に補任されている。庄園への対応など実務は父尹通が行っており、知行国主であった。成経が筑前守から弟季綱を国守として備前国知行国主となったのと同様である。次いで尹経は安芸守に遷任しているが、その任期途中の保安三年に父伊通は死亡している。それにもかかわらず尹経は大治三年一二月に石見守藤原資盛が遷任するまで安芸守であった。これは安芸国が白河院分国であったためであろう。この文を書きながら狐につままれたような気分となったが、これが知行国・院分国の実態なのであろう。

2019年6月20日 (木)

頼朝妹坊門姫の名前の背景2

 次いで建久六年に前斎院範子が准三后待遇となった際に、杵築大社領は斎院領から範子領とされたと思われる。範子は同九年に即位した土御門天皇の准母とされ、皇后宮とされた。建永元年には、光隆の邸宅があり、範子邸も隣接して存在していたので、院号宣下により坊門院と呼ばれた。
 庄園の問題は後日詳細に述べることとして、頼朝の妹坊門姫は、幼少時に平治の乱で父を失った。頼朝の姉との説もあるが、角田文衛氏の説くように『吾妻鏡』の記載が何らかの理由で誤ったものであろう。すでに述べたように、義朝の母は藤原清隆の叔父忠清の娘であったが、結婚時には父は出家しており、従兄弟である藤原清隆の庇護にあり、義朝の叙爵・下野守補任を実現したのは清隆であった。平治の乱では妻の実家である熱田大宮司家は頼朝方とはなっていない。そうした中、三才前後であった姫は祖母の実質的実家である清隆の嫡子光隆の坊門亭で育てられたのであろう。清隆もなお健在であり、平治の乱後一旦解官された光隆の復帰や、杵築大社の再立券をサポートしたもの清隆であろう。もっと早く気づいてもよかったが、坊門院範子について調べた結果、ようやく結びついた。内蔵資忠が杵築大社神主補任について領家光隆への仲介を頼朝に依頼し、当時、造営が遅れている中、目代と神主に頼朝の推薦する人物を起用し、領家・国衙・幕府一体となった大社造営が実現し、新体制から五年目に遷宮が行われた。ただし、その関連史料は国造家にとっては残したくないものであり、承久の乱で出雲国在庁官人の多くが没落したことと相まって、関係史料は闇に葬られてしまった。

頼朝妹坊門姫の名前の背景1

 この人物については以前述べたことがあるが、今回はその通称「坊門姫」の由来が判明したので、以下で述べたい。そのきっかけは、出雲大社領が藤原光隆を領家として再立券された際の本家を検討したことであった。本家の関係文書は、建保二年八月日土御門院庁下文が唯一のものである。そこには「近来又為領家裁、当時已為庁分御領」とあり、領家の成立と本家の成立に時間差があるようにも思えるが、領家藤原光隆と本家土御門院庁の間の時間差にすぎない。それととともに、本家の存在感の薄さが感じられるのである。再立券が行われた永暦年間の時点で、本家なしに立券することは考えられない。
 土御門が退位して院庁を開設した承元四年(一二一〇)に、その准母坊門院(範子内親王)が死亡している。そしてこの女性が幼少期に藤原光隆の邸宅で育てられていたとなれば、大社領本家職が坊門院から土御門へ譲与された可能性は大きい。範子は高倉天皇の娘であり永暦年間にはまだ生まれていないが、範子は前賀茂斎院頌子内親王が出家した際には、その邸宅などの財産を譲られている。斎院領としては紀伊国南辺庄や安芸国安麻庄について斎院庁や前斎院庁下文が出されている。
 永暦年間の賀茂斎院は後白河院の娘式子内親王であり、この時期に領家光隆が斎院に所領を寄進したが、領家が本所であり、本家は得分収入が主な権限であったと思われる。そして猫間中納言と言われた光隆が幼少時に坊門亭で養育した範子内親王が治承二年(一一七八)に二才で斎院(猫間斎院と呼ばれた)となった。範子は父高倉院が治承五年(一一八一)正月に死亡により斎院は退下したが、次の斎院礼子(御鳥羽院娘)が斎院の卜定されたのは元久元年(一二〇四)であった。

 

2019年6月10日 (月)

六月の近況

 四ヶ月にわたり娘が隠岐から出産のため里帰りしており、二人の孫との愉しみもあるがせわしない日々を送っていた。娘も隠岐に戻りようやく落ち着いた日々を取り戻せるであろうか。たまたま「折り目正しい近世史家」という中世史家黒田日出男氏のコメントを引用した自分の記事を確認したくなって検索したら(検索エンジンで差があり、今回はエッジでヒット)、吉田向学氏の2010年のブログがヒットした。歴史HP(資料の声を聴く)の「その他」の文章がそのまま引用してあった。自分が書いた記事はヒットしなかったので、結果的には助かった。向学氏もブログを継続してアップしていらっしゃることがわかった。
 相変わらず院政期の日記を中心にみているが、すべてが知らないことだらけであり(最近では「手長」という用語があった)、その意味でネットで検索できるのはありがたい。ブログ開設11年目であるが、以前では考えられなかったことである。とはいえ、論文を読むと十分調べないで人名や時期を比定をしているものも珍しくないのが現状である。院政期の公家社会について少しずつわかりつつあるが、おそらくよくて一合目あたりであろうか。以前は読み飛ばした部分に注目すべき事が書かれていたことに気づかさせられることがしばしばある。一方で、公家社会の系図を詳細に掲載しているHPが、サイトそのものが終了したためにみられなくなったことは大変残念である。
 公家社会で人や動物が死亡して「穢れが発生してさあ大変」という記事も散見するが、極めてその場しのぎでいい加減である。それだからこそ、差別問題を解決するのに理屈だけでは不十分なのだろう。明治初期に官吏の妻が出産した際の対応がいい加減だと思ったが、院政期も同じであった。しかし時には悪い意味でいい加減でそれを口実に差別をする場合がある。

2019年6月 7日 (金)

淡路守平教盛と忠実

 平忠盛の子教盛は清盛、頼盛に次ぐ存在として中納言にまで進んでいる。その息子達は平家の滅亡と運命を共にしているが、日野資憲の娘との間に生まれた教子は藤原範季の室として高倉天皇の第四皇子(御鳥羽天皇)を育て、その娘重子は順徳天皇を産んでいる。
 教盛の母は藤原忠実の異母弟家隆の娘である。家隆は公卿にならず、丹波守・左京大夫を歴任した。生年は不明であるが、永長元年(一〇九六)正月五日に叙爵し、同年一二月二六日に元服している。同じ日に元服した花山院忠宗は寛治元年(一〇八七)生まれの一〇才であった。家隆も同年令とすると、忠実より九才下、家政より七才下となり、父師通が三八才で死亡した時点で一三才であったことになる。さらにはその娘を室とした平忠盛は家隆の九才下となる。家隆には待賢門院女房となった娘と皇嘉門院女房となった娘がいた。教盛は忠盛三三才時の子であるがその母家隆娘は二〇才前後であったと思われる。母方の祖父家隆はその三年前に死亡している。家隆の妻は忠実の第三子頼長の母の妹であり、家隆の娘は伯母の庇護下で待賢門院女房となったのではないか。
 教盛は久安四年(一一四八)四月二六日に二一才で叙爵し、仁平元年二月二日には父忠盛が播磨守を辞して教盛を淡路守に申しなしたが、淡路守はそれまでの知行国近江国と交換で忠実の知行国となっていた。この点について元木泰彦氏は五味文彦氏『平清盛』の書評の中で、教盛の外祖父が忠実の親族で近臣であったとするが、忠実の知行国の受領に任用されるにしては関係が希薄のように思われるとして、淡路国を忠盛の知行国の増加とは解釈できないかと疑問を呈している。家隆が兄忠実の近臣であるとは確認できなかったが(儀式で忠実の「手長」を務めていたが、これにより家臣であるとはならない)、教盛は父方のみならず母方を通しても忠実とつながっており、母方の曾祖父藤原盛実は忠実の近臣であった。元木氏もここまで確認すれば疑問は氷解したのではないか。とはいえ近江国と淡路国の相博は事実であり、元木氏の疑問は十分な根拠なきものであった。当方としても子を申し成した父=知行国主と考えていたが、そうとは限らないことを確認させられた。

 

2019年6月 5日 (水)

上島享氏の知行国制論から5

 上島氏は続いて、これまた当ブログで紹介した後白河院の寵臣で近江守であった藤原実範(教)の遷任問題(承安二年閏一二月)をとり上げている。実教は鳥羽院の寵臣家成の子であったが、五才で父を亡くしたため、徳大寺実能の子で家成の娘を妻とする公親の猶子となった。ところが一〇才で公親も死亡してしまった。それが仁安三年(一一六八)一二月一六日には一九才で近江守に補任された。上島氏は実教の上に知行国主はおらず、実教は受領収益を自ら取得でき、構造上は知行国と変わらないため、遷任(相博ヵ)先として藤原忠雅が知行国主である信濃国と藤原朝方が国主である出雲国が候補となったとしている。これについて、すでにブログでその論を詳細に検討した元木泰雄氏は、近江国は実教の一三才年上の兄成親の知行国であったとする。その根拠となったのは承安二年七月二一日に成親が国司の遷任を含む五つの勧賞を得た(『玉葉』)ことであり、その遷任とは前年一二月末の時点で現任が確認できる弟盛頼の三河守遷任と承安二年閏一二月七日の実教の信濃守遷任であろうとしている。この元木氏の説は正しい。信濃国主忠雅は父忠宗を早くに亡くしたため母の兄である家成のもとで育っており、一四才下の成親、二六才下の実教とは親しい間柄であった。
 野口実氏「院政期における伊勢平氏庶流―「平家」論の前提作業」(京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要第16号)は興味深い分析であったが、ただ一点、白河院近臣藤原資盛(北面で安芸・石見守を歴任する一方で、院の死亡時に立ち会っている)を伊勢平氏の一流とした点には驚かされた。野口氏も良く知っている分野とそうでない分野があり、それゆえ資盛を誤ったのだろう。ただし、野口氏のもとにはすぐに「藤原」の誤りとのコメントが寄せられたのであろう。次号の「院政期における伊勢平氏庶流(補遺)」で新たな実例を紹介・分析するとともに、訂正を加えている。誰でも勘違いはあるのであり、それが修正されれば良いのである。上島氏の場合も原論文に大幅に加筆して論文集に収録しているにもかかわらず、初歩的なミスがかなりあるのが問題である。なにより上島氏に意見する人がいないのが最大の問題である。

 

上島享氏の知行国制論から4

 上島氏は『中右記』永久四年一一月一六日条を引用して、忠実が尾張国の支配を白河院から認められたが、関白太政大臣が受領を兼ねるのは奇怪で世間体があるので、義理の弟である源師俊を国守としたとし、師俊は形式的に国守になったにすぎないとする。師俊についてはすでに述べたように摂関家家司であったがために忠実知行国の国守となったものであり、義理の弟かどうかは問題ではないし、形式的な国守ではなかった。
 尾張国は都と東国の中間に位置する重要な国で、忠実は師俊の重任について院に働きかけたが、認められるところとはならず、元永二年一二月一五日には院近臣で越後守である藤原敦兼が相博により尾張守に補任された。越後守の後任は師俊ではなく、源国能であった。国能は師俊が村上源氏俊房流であったのに対し、その弟顕房流である国信の子で、この時点で一四才であった。その兄弟には忠実と高陽院(勲子、後に改め泰子)に仕えた雅国や忠通の室でその子基実の母信子、基房の母俊子がいる。ただし、翌保安元年一一月に白河院に無断で鳥羽天皇への娘勲子入内を図ったことで、忠実は院から義絶されたため、越後守は三年後には院分国となり国守も藤原雅教(三才で父家政が死亡し、母方の祖父顕隆の庇護にあり、この時点では一一才であった)に交替している。尾張国も院近臣長実の子長親と顕盛が合計九年間国守となった。白河院の死亡により忠実が尾張国知行国主の座に復帰したのは長承三年(一一三四)であった。
 上島氏は一二世紀後半には国主への知行国付与を前提に国守が補任される事例が摂関家以外の貴族にもひろがるとして、その例として国主藤原光能のもとで藤原弘家が承安二年(一一七二)六月に紀伊守に補任された史料をあげ、国守は国主の近親者である必要もないとしている。ところが、ブログの記事で述べたように、弘家が知光とも呼ばれ、光能と武蔵国武士足立遠元の娘との間に生まれたことは調べればすぐにわかる。上島氏はそれをしないで、光能と弘家は親子ではないとした上で自らの根拠なき論を述べている。

 

上島享氏の知行国制論から3

 上島氏は『中右記」元永二年正月二四日条(院と忠実との間で美濃・備後国沙汰について意見が交換されたが、密事により記し置かずと記主中御門宗忠が述べている)を根拠に美濃国と備後国が関白忠実の知行国となったとし、美濃守藤原家長は摂関家家司と考えられるとするが、そのようなことを示す史料は存在しない。家長は一月一〇日に白河院判官代と鳥羽天皇蔵人に補任されている(『中右記』)。そして二年一月二四日条の続きの部分をみると、美濃守に家長が院分として補任されたことが記されているが(家長は鳥羽院庁下文の署判者として二〇回以上みえ、異母弟家成と遜色ない。回数は槙道雄氏の論文による)、備後守は交替がなかった。上島氏が備後守に補任されたとした藤原季通は忠実の従兄弟とする。確かに忠実の母全子と季通の父宗通は兄弟である。他の兄弟が公卿となったのに、季通のみ前備後守であったことを哀れんだ忠実の子頼長から、永治二年正月の除目で坊官(東宮傳)賞を譲られて季通が正四位下に叙せられている。問題なのは季通が七年前の天永三年正月に備後守に補任されていることである。年齢は同母兄と同母弟(公卿となったため生年が判明)からして両者と二才違いの一八才であったと思われる。季通はそれに先立ち、嘉承元年に前任者が辞職した跡に一二才で美濃守に補任され、一期四年を務めたと思われる。
 宗通と藤原顕季の娘の間に生まれた五人の男子の中で長子信通と四子重通は受領経験がない。次子伊通(三河)と五子成通(備中)はともに初任の受領は院分(父宗通が知行国主)であった。備後守季通は公卿にならなかったため『公卿補任』に記録は残っていないが、美濃国と備後国は院分・知行国主宗通のもとの受領であったと思われる。前任者源忠高の在任が二期八年に及んだため、美濃守の交替は確実であり、白河院は院分国に、忠実は知行国にしたい希望があった。忠実は美濃を院に譲る代わりに、季通の在任が七年となった備後守を希望したのだろうが、結局今回は断念したのではないか。

 

上島享氏の知行国制論から2

 白河院政後期には一院(白河院)分国とともに新院(鳥羽院)分国、女院(待賢門院)が数多くみられるようになる。従来の女院分国は一年限定でその国の収益を与えるものであったが、待賢門院分国は国司の任期である四年ないしは八年に及ぶもので、五味氏は知行国と同様の性格と得分を持つものに変わったとしている。上島氏は「一二世紀中葉には上皇・女院も知行国(院分国)を持つようになる」として注では女院分国の確実な初見は久安二年一一月一三日に確認できる美福門院(院号宣下は同五年八月三日)分国越前であるとする。この事例は五味氏が紹介済みで、五味氏はそこから進んで、美福門院分国の最も早い時期のものとして保延二年一月二二日に藤原俊盛が補任された備後国の存在を明らかにした。前年一二月四日に叡子内親王を産んだことに伴うものであろうが、三位に叙せられたのは同二年四月、女御となったのも体仁親王立太子と同時(保延五年八月一七日)であった。女院ではないが、実質的女院分国とでもいうべきものであった。また、俊盛は三ヶ月半後の保延二年五月一〇日には丹波守に遷任しており、後白河院政前期までの女院分国とは異なっている。新たなタイプの女院分国の最初は大治年間の待賢門院分国であった。こちらは崇德天皇即位の翌年=天治元年一一月二四日には院号宣下を受けていた。さらに長承二年六月二九日には忠実の娘勲子が入内しており、その分国も想定できる。女御ならびに皇后(この時泰子と改名)となったのは翌長承三年、院号宣下は美福門院宣下の直前となる保延五年七月二八日であった。こちらは摂関家が実家であり、摂関家知行国を女院分国に変更している例もある。
 大治四年七月に白河院が死亡して鳥羽院政が開始されると、一院分国はみられなくなる。正確には大治五年正月二八日に藤原公重が国守に補任された紀伊国が一院(鳥羽院)分国の最後であった。公重は徳大寺実能の子であり、父実能が知行国主であった。紀伊国はそれまでも院分国とされたことが何度かあった。保延四年正月二二日には藤原親能が後任の紀伊守に補任されているが、それに該当する人物を『尊卑分脈』で確認できなかった。
 これに対し、上島氏の述べているように後白河院政期に一院の分国が復活し、多くみられるようになる。現在確認できるのはその一部であるが、初見は応保元年一〇月二九日に藤原脩範が補任された美濃国で、以後も断続的に後白河院分国となっている。同年九月二三日には滋子が憲仁親王(高倉)を産んでおり、二条天皇派への対抗と、後白河院の庄園が少ないことで院分国を再開したのではないか。その補任状況からは知行国に近いものであったと考えられる。以下では個々の事例にコメントを加える。

 

上島享氏の知行国制論から1

 御願寺造営問題との関係で検索してヒットした上島享氏『日本中世社会の形成と王権』を中古で購入したが、ほんの一部を読むにとどまっていた。今回、庄園、知行国、院分国に関する部分を読んだが、それぞれ独自の見解が示されている。精読した知行国・院分国についてのみコメントを加えたい。
 論文は初出に対して様々な見解が寄せられたことにより、かなり修正・加筆を加えて論文集に収録されている。偶々、少し前に「重任功」の問題で氏の論文を批判した佐古愛己氏の論文(立命館文学の論文であり、ネット上に公開されている)を読んでいたが、佐古氏の論文を読む限り(上島氏の反批判はまだ精読していないので)、その批判は妥当という感想を持った。現時点の上島氏については理論的ではあるが、元木泰雄氏と同様、実証面では難点があると思う。具体的に述べたい。
 最新の岩波講座では本郷恵子氏が「院政論」を執筆しているが、上島氏への言及は、「一二世紀半ばには上皇・女院等も院宮分国の分配によって収益を確保するようになり、知行国制の確立をみる。」の注で五味氏と上島氏の論文を挙げているのみである。ただ、両者の論文を読めば、この見解は五味氏というよりは上島氏の説であることがわかる。元木氏の論文は複数箇所で注で言及されているが、「ただし藤原信頼が武蔵・陸奥両国を知行したことから、平泉藤原氏や源義朝を従属させ、武門の中心にいたとする評価は過大に過ぎるだろう」とする。全く同感である。元木氏についてはすでに述べたので、以下で述べるのは上島氏についてのみである。
 上島氏は知行国制へつながる要因として、院近臣受領による国務後見と国守収入の確保、さらにはこれに対抗して収入を確保するための公卿子息任官による公卿の知行国の増加を挙げる。上島氏の理屈に対し、知行国制は極めてファジーなもので(だから古代史専門家キラーと言える)、理屈ではとらえきれない面が多々ある。

 

熱田神宮大宮司藤原季範

 熱田神宮大宮司季範の娘たちが待賢門院並びにその子上西門院の女房となるきっかけとなったのは、永久二年四月三日の待賢門院の異母弟季成の尾張守(知行国主西園寺通季)補任であるとの仮説を提示した。季成の尾張守補任は公卿補任に記載されている。ところが五味文彦氏はその時期の尾張守は高階為遠で、次いで丹後守源師俊が為遠と相博して尾張守となっており、永久二年四月三日季成の尾張守補任はなかったと述べた。『大日本史料』でも尾張守季成としているが、公卿補任以外の根拠はない。
 「国司一覧」には天仁元年正月の伯耆守為遠の尾張守遷任後、天永二年一二月一六日に源有兼が尾張守に現任していることを記すが、有兼はそれ以外の史料には尾張権守とある。また季成の補任後にも為遠の尾張守現任と丹後守との相博が確認できるので、五味氏の説が正しい。
 季範とその子に関する系図の記載は要検討であることを述べたが、なお具体的に述べる。季範については大治四年の蔵人所雑色のみで、従四位下叙位や国司補任は確認できない。その娘についても、「待賢門院女房大進局」については、系図の記載以外にそれを裏付ける史料が確認できない。「上西門院女房千秋尼」についても同様だが、こちらは範忠の叙爵後のことと考えられ、あるいは事実を反映しているかもしれない。範忠の叙爵後、兄弟姉妹の中央での活躍が本格化したのではないか。僧侶となった子のうち、長暹については一次史料が残り、八条院との関係があったことがわかるが、時期的には一一八〇年代以降である。季範の末娘は『尊卑分脈』では左馬頭源隆保朝臣母とあるが、藤原隆季の子隆保ではなく、源師隆の子従五位下師経の室で、その子が左馬頭正四位下隆保である。
 この前後の尾張守で待賢門院との関係が深いのは女院別当藤原敦兼で、元永二年一二月一五日に補任され五年間在任し、保延四年(一一三八)に六〇才で出家している。その子季兼・季行兄弟(母はともに顕季娘)も待賢門院との関係を有したが、季行はその妻藤原宗能の娘が得子(美福門院)の第三子姝子内親王(永治元=一一四一年一一月八日生)の乳母となったことで、美福門院別当となった。その庶子重季(後に以仁王の遺児北陸宮とともに活動)の母は、範忠と同じ源行遠の娘である。
 久安五年一〇月二六日に頼長の子師長が拝賀のため各所を訪れている。美福門院では院司武蔵守季行朝臣が取り次いだのに対して、新院(崇德)では院司備後守季兼朝臣雅取り次いだように、兄と弟で立場が異なっていた。

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