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2019年5月16日 (木)

藤原成親3

成親妹と重盛との婚姻について、『平治物語』は平治の乱以前のものとして、重盛が助命を請うたことを記すが、『愚管抄』ではそれほど関与が深くなかったとして罪が軽かったとする。名前(経子)からして、藤原経忠の娘の子=成親の同母妹であろうが、重盛との間の長子清経が生まれたのは長寛元年であり、婚姻は乱後であった可能性が高い。平治の乱で解官された成親はその時点で二二才であり、経子は三三才で従三位左京大夫であった家成の嫡子である異母兄隆季の保護下にあったのではないか。重盛は成親と同年齢で、乱の時点では正五位下左衛門佐兼遠江守であった。三年前(保元の乱)の時点では従五位下中務少輔でしかなかったが、乱後の恩賞で昇進のスピードがアップしている。元木氏が説く平治の乱以前に成親主導で経子と重盛との婚姻が成立したとの説には根拠がない。
 保元の乱以前は昇進にブレーキがかかっていた隆季も平治の乱の二年後に正三位参議となったように、昇進がスピードアップする。隆季の嫡子で藤原忠隆の娘(年齢からすると信頼の異母姉であろう)を母とする隆房と、清盛の娘との間に生まれた隆衡の誕生は承安二年(一一七二)であるが、その年の二月に清盛の娘徳子が立后され(入内は前年一二月)、隆季が中宮大夫に補任されている。このように隆季は清盛との関係を強めていたが、成親は同年には院御所三条殿の造営を行い従二位に叙され、複数の知行国を認められる等、後白河院との関係を強めていた。
 そして清盛と後白河院の間の最大の対立点となっていたのが、比叡山による強訴への対応であった。強気の対応を求める後白河院に対して、清盛は比叡山との関係を重視し柔軟な対応を模索していた。その一方で、後白河院と清盛をつなぐ役割を果たしていた建春門院(滋子、清盛の妻時子の異母妹)が安元二年七月に死亡したことで、人事面の対立も強まった。承安五年には平氏に近い藤原邦綱を抑えて成親が権大納言に補任され、安元二年一二月には清盛の子知盛を抑えて後白河院の近臣藤原光能が蔵人頭に補任された。ただし、前に述べたように、光能は本来後白河院との関係は弱かったが、その能力を認められ起用されたものである。以上、補足をしたが、ここでも元木氏の事実認定には問題があることが明らかになった。

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