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2019年5月 7日 (火)

「平治」改元の経緯から

 世間では連休が終了したが、当方にはほとんど影響はない。相変わらず記事をいくつか書いているが、完成にいたらない。とりあえず、今読んでいる資料から、「平治」改元について紹介する。
 保元・平治の乱で知られる「保元」は久寿三年四月二七日に改元したものである。後白河天皇の即位後初の代始の改元であったが、七月には保元の乱が起きた。保元年間には内裏造営が行われたが、同三年八月に予定通り子守仁親王に譲位し、二条天皇の即位となった。その即位後初の改元が保元四年四月二〇日に行われ「平治」となったが、一二月には平治の乱が発生した。
 元号の案を作成したのは式部大輔兼石見守藤原永範、文章博士藤原長光、同藤原俊経と参議藤原俊憲(信西入道の子)である。応暦・淳仁(俊憲による)、保貞・承宝・弘保(永範)、永世・久承(長光)、大喜・平治・天大(俊経)であり、この中から「平治」(出典は『史記』)が選ばれた。俊経は参議日野顕業と大江有経の娘の間に生まれ、蔵人、式部大丞、摂津守、治部権少輔、文章博士、左大弁を経て参議となっている。
 公卿の会議では淳仁と平治に意見が分かれたが、「淳仁」は醍醐天皇の諱「敦仁」と読み(あつひと)が同じであることから、大殿藤原忠通(保元の乱の主役であり、乱により摂関家が衰退したとの通説には反対である)に助言を仰ぎ「平治」が採用された。
 八世紀半ばに孝謙女帝の後継者となった「淳仁天皇」がいたが、擁立した恵美押勝が反乱を起こして失脚したことにより廃位され淡路国に流された。重祚した称徳女帝の意向により天皇とは認められず、「廃帝」「淡路廃帝」と呼ばれた。この復権を図る勢力もあり、逃亡を図った廃帝は捕らえられ、翌日に病死したことになっているが、殺害されたとの説が有力である。明治三年七月二四日(一八七〇年八月二〇日)に明治天皇(実際には明治政府)から弘文天皇(大友皇子)、仲恭天皇(後鳥羽天皇の孫、承久の乱時の天皇)とともに、「淳仁天皇」という諡号を送られた。
 ちなみに当方は元号は不要という立場で、天皇も今回で最後として順次廃止のための移行措置をとるべきである。日本列島の自然環境こそがアイデンティティーとなるべきで、島国ではあるが住みやすいため、少しずつ海外からの人々が流入し、新たな要素が付け加わっていく。地震が多いのも特徴であり、原発を設置するには地球上で最も適さない場所である。

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