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2019年5月16日 (木)

三条公教3

 公教は近衛天皇の死亡に伴う後継者の決定に、雅定とともに参加している。元木氏は公教は閑院流だが、美福門院や信西と姻戚関係にある人物で、雅定とともに美福門院系の人物だとするが、もうすこし正確な分析が求められる。公教の当初の正室は藤原憲方(為隆子)の娘であったと思われるが、その間に産まれた子については不明である。それが、近衛天皇即位後の久安元年(一一四五)に藤原清隆の娘との間に娘が、その二年後には実房が誕生している。
 清隆は元永元年に璋子の中宮権大進に起用され、権少進となった六才下の同母弟範隆とともに、皇子出産の儀式で重要な役割を果たしていたが、保安二年四月五日には前任者藤原尹通に代わって大進となり、天治元年一一月二四日には院号宣下に伴い、待賢門院別当となった。次いで白河院の死亡直後の大治四年八月一六日に、藤原忠隆の子隆教とともに鳥羽院政下の待賢門院別当に再度補任された。弟の範隆は女院分国である甲斐国の国守であった長承二年八月二七日に三七才で死亡している。
 清隆の妻藤原家政の娘家子が近衛天皇の乳母であったことを記す『尊卑分脈』に対して、『公卿補任』では鳥羽天皇の乳母であったとする。家子が清隆の間に嫡子となる光隆を産んだのは大治二年である。この少し前に両者の婚姻が結ばれたと考えられるので、『尊卑分脈』の記述を正しいとすべきである。

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