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2019年5月19日 (日)

気になる考え方2

 話を戻すと、角田文衛氏『王朝の明暗』を古本(新品同様)で購入し、「源頼朝の母」以下の論考を見たが、裏付けなき想像がかなりなされている。季範については「蔵人所雑色を振りだしに、その後どういう官途を辿ったかは定かではない。恐らく彼は、生涯の大部分を下級官人として過ごし、晩年は熱田に隠退したのではないかと想定されるが、これについては拠るべき史料が見い出されない」と述べてあった。それが『待賢門院璋子の生涯』(選書版、1985)では「本職は受領であったようである」として注では「久寿二年二月、周防守に任官」と述べたが、それは全く別人の源季範の記事を誤読したものであった。角田氏は「微証するに足る史料は欠いているけれども、季範の妻-源行遠の娘-も待賢門院の女房であった可能性が高い」としているが、角田氏も認めているように系図では行遠(頼信の子頼任の孫)の関係者で待賢門院と関係のあった人は一人も記されていない。
 角田氏「崇德院兵衛佐」では『吾妻鏡』で頼朝が「親類」の故をもって彼女に厚意を示している点から勘按すると「彼女の母は熱田宮司・藤原季範の姉妹であった可能性が高い」と述べるだけでなく、「源頼朝と兵衛佐との関係(想定)」とする参考系図を作成・掲載している。これも杉橋氏と同様の手法である。この手法を使うと、頼朝が「御外戚」だとして対馬国からの上洛を家臣にサポートさせた日野親光の母はどうなるのであろうか。系図では母は不明である(後述の阿波との間の子俊光がいるが、親光は異母弟と思われる)。
 頼朝が「親類」「外戚」と呼んでいるのはこの二人のみであるが、共通するのは崇德院の関係者であることである。親光の父日野資憲は崇德院庁の別当として、訪問者の取り次ぎの大半を務めており、側近中の側近であった。さらに言えば、頼朝の祖父為義の母は日野有綱の娘であった。有綱と資憲の祖父有信、さらには資憲の母方の祖父有定は兄弟であった。資憲の父実光の姉妹が藤原宗長の母であり、系図に池禅尼の母の記載はないが、宗長は禅尼の同母弟であった可能性が高い。さらには資憲の妻待賢門院阿波(後に崇德院女房をへて、後白河院勾当に)の父資光も実光の同母弟であった。以上の点から、頼朝は崇德院との間に子をなした兵衛佐局を「親戚」と呼び、資憲の子親光を「御外戚」と呼んだと考えられる。

 

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