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2019年5月21日 (火)

高階敦政の投身自殺2

 話を敦政に戻すと、白河院政期の大治元年二月二四日に敦政が上野守に補任されている。『長秋記』には大治五年の「前年」のことして記されているが、関係者である侍従中納言は藤原実隆(閑院流公実の子、待賢門院の異母兄で、鳥羽院の従兄弟)しか該当者がなく、実隆は大治二年一〇月一六日に死亡しており、大治元年か二年の事件であろう。具体的には実隆から上野国の所領について国司の免判を求める申請が出されたが、敦政は顕盛を通じて白河院に働きかけ、庄園を停廃してしまった。実隆は女房である妹を通じて鳥羽院に働きかけていたため、鳥羽院からすれば怒り心頭であったと思われる。妹とは藤原家政の妻となっていた女性と思われ、彼女の娘は鳥羽院三条局と呼ばれ、院との間に妍子内親王を生んでいる。
 白河院(本院)と鳥羽院(新院)の対立が表面化しかかった事件としては、大治四年正月の除目で白河が鳥羽の諒解を得ないままに、藤原成通(宗通の子で伊通の同母弟)を従三位に叙そうとした事があった。やはり白河が主導した二件の人事案とともに、待賢門院が白河に苦言を呈し、成通の案件は撤回された。
 敦政は白河院の寵臣藤原長実の嫡子顕盛と結び、その死後は鳥羽院の寵臣藤原家成の異母兄家長と関係を有したのであろう。家長も度々鳥羽院庁下文の署判者としてみえるが、家成とは違い受領を歴任していた。佐伯智広氏は家成以外の兄弟は崇德に近侍していたと述べたが、状況は単純では無く、家長が後白河方となっても不思議では無かった。この家長と家成の不仲が、敦政が陵辱される直接の原因となったが、過去を遡ると、鳥羽院にとって敦政は許すべからざる存在であった。偶然二点の史料が結びついたので、まとめてみた。

 

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