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2019年5月15日 (水)

待賢門院の出家と死亡1

 待賢門院は永治二年(一一四二)二月二六日に出家したが、その原因となったのは一月に源盛行・津守島子夫妻が皇后得子を呪詛したとして土佐国に配流されたことであった(それに関する動きは前年からあったであろう)。両人は待賢門院に祗候しており、後に編纂された『百錬抄』には女院の仰せを奉りと記している(『台記』にも側聞を記すのみとして同様の趣旨が記されている)が、果たして事実であろうか。
 盛行は、蔵人・検非違使と上総・伊豆守を歴任する一方で摂関家職事としても活動していた源盛雅の子であるが、永久四年一月二八日には早くも子盛賢に正六位上左馬允を譲ることを申し出ている。盛行もまた天永三年二月一九日には忠実・忠通父子の前駈をした摂関家家司の一人としてみえる。その後、蔵人所雑色をへて元永元年正月二八日には新蔵人としての業務に従事している。保安元年正月二八日の除目では左兵衛尉に補任され、翌年正月二四日には検非違使となっている。この時期、父盛雅とともに璋子の出産に関する行事でも五位としての役を勤め、白河院の葬儀でも炬火を勤めた十二人の一人としてみえる。系図では待賢門院判官代と記され、従五位上まで昇進していた。事件一〇年後の仁平年三月五日に「散位従五位上盛行卒」とのみ記されている(本朝世紀)。
 治承・寿永の乱時の石見守藤原能頼は重方の子であるが、姉妹の夫葉室光雅が知行国主であった。能頼の母は前帯刀源盛賢の娘(上西門院官女)であったが、この盛賢が盛行の子と同一人物であろう。盛行夫妻は待賢門院に祗候し、その孫娘も上西門院に仕えていた。この点からすると夫妻による呪詛は皇后宮得子サイドからのでっち上げであり、後に許されたことが推測できる。
 女院の出家が院分国に与えた影響をみると、女院の侍卜部兼仲が和泉守であったが、呪詛事件の直後の永治二年正月二三日には蔵人日野光盛が和泉守に補任されている。光盛は実光の子で、資憲の異母弟、資長の同母弟である。康治二年一一月には父実光が中納言を辞任して光盛の和泉守重任を実現しようとしている。実光(摂関家家司でもあった)が知行国主であった。久安三年に藤原忠実七〇賀が開かれた際に、他の摂関家知行国(忠実分=近江・安芸・石見、忠通=伊賀・備前)とともに和泉国が務めているのは実光・光盛父子が摂関家家司であったためである。

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