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2019年5月11日 (土)

源雅国1

 雅国は石見守国保の父で、忠実の家司であった関係で、その子泰子(高陽院)や頼長との深い関係を持った。彼に関する情報を整理する。
 父国信は、永久の乱後、兄俊房流に代わって村上源氏の中心となった弟顕房の子である。国信本人は正二位権中納言にまで進み四五才で死亡したが、その息子で公卿となるものはなかった。ただし娘信子と俊子(国子とも)が藤原忠通の側室となり、それぞれが近衛基実と松殿基房を産み、信子は従二位に叙せられている。
 雅国は生年は不明だが、天永三年(一一一二)に叔父雅俊の加冠で元服している。同母兄顕国が一四才で元服しているので、雅国は康和元年頃の生まれであろう。そうすると顕国とは一六才差となり、国信三一才時の子となる。永久三年一〇月二八日に、白河院の異母弟輔仁の子有仁が白河院のもとに赴いて元服している。その儀式の役送五位殿上人として雅国が、藤原宗兼(池禅尼父)、清隆、忠隆(信頼父)とともにみえ、叙爵し、院への昇殿を認められていたことがわかる。大治四年七月八日ひは一五日の後白河院の葬送雑事が定められているが、「迎火十五人」の中に雅国がみえる。
 長承二年二月九日には一四才の中納言頼長が春日祭の上卿を務めている。その供奉人内(崇德天皇)殿上人一九人の中に「兵部権大輔雅国」がみえる。七月一三日には鳥羽院女御して入内した泰子の役人が補任されているが、職事の中に雅国がみえる。雅国は忠実の家司であったがために起用されたものであろう。翌三年二月には少納言に補任されたが、三月一九日に皇后宮となった泰子の役人にはみえない。後に石見守に補任される国保は、大夫頼長に次ぐ権大夫に補任された源師俊(前述のように忠実の知行国の国守を務めたことがあった)の娘との間に生まれている。
 保延二年一二月一三日には内大臣に補任された頼長が慶賀として各所を廻っているが、前駆の内殿上人一四人の中に雅国もみえる。一七日に参内した際には、大宰権帥日野実光、少納言雅国、若狭守藤原公信を相具(動向であり供奉ではない)している。この際の前駈は家司七人が務めている。次いで康治二年一月六日には高陽院泰子御給として従四位上に叙せられ、久安元年一二月一七日には新たに忠実の知行国となった安芸国の国守に修理権大夫雅国が補任され、その直後の同二年正月二三日に雅国の子国保が石見守に補任された。雅国の推定年齢は四〇台半ば過ぎである。

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