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2019年5月31日 (金)

一一世紀の隠岐国司1

 この時期の隠岐国司については、正確な補任時期や系譜上の位置づけが不明確なケースが多い。寛弘六年(一〇〇九)の隠岐守藤原親通と同七年正月から長和三年(一〇一四)正月までの国守藤原実雅の任中の公文勘済が終わっていないことが治安元年(一〇二一)九月一〇日の隠岐守時重奏状により訴えられている。新制により得替後二年以内に勘済が定められていた。この人物は長元四年(一〇三一)六月二四日に下総守に補任された藤原時重と同一人物であろう。
 次いで同年一月二五日に「解由抑留事」が問題となっている隠岐守源道成は盛明親王孫で私家集『道成集』を残している。経歴を追うと、寛弘六年一二月二一日には東宮少進であった。同七年三月八日から長和二年(一〇一三)一月二九日まで若狭守に現任している。次いで翌三年三月二八日には右馬権頭とみえ、一二月二五日には「前若狭守道成」と呼ばれている。さらに寛仁元年(一〇一七)一〇月七日から同三年正月一四日までは信濃守に現任している。治安三年(一〇二三)六月二三日には「前信濃守道成」が因幡守に補任され、万寿二年(一〇二五)一一月一〇日での現任が確認できる。隠岐は小国で守は叙爵前でも補任可能であるが、信濃守退任後、異例な形で隠岐守に補任されたと考えられる。生年は不詳だが、長元九年(一〇三六)に没したとされる。極位は正四位下であった。
 道成の娘は日野実綱(一〇一二~一〇八二)との間に有綱、有信、有定らを産んでいる。実綱の異母弟実政が日野氏惣領であったが、大宰大弐在任中に宇佐八幡宮との紛争で御輿を毀損したと訴えられ、流罪となると、有信が惣領となった。
 承暦四年(一〇八〇)八月二日に大宰府が訴えた「前隠岐守平兼基」は、応徳三年(一〇八六)の譲位に伴い蔵人所衆に補任された三人の一人「平兼基」と同一人物であろう。

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