koewokiku(HPへ)

« 藤原成親3 | トップページ | 三条公教2 »

2019年5月16日 (木)

三条公教1

 三条氏は閑院流藤原公実の二男実行を祖とする。一才年長の兄実隆とともに藤原基貞の娘が母であった。これに対して、三男通季、五男実能(四男は母が異なり僧侶となる)、並びに待賢門院璋子の母は堀河・鳥羽両天皇の乳母で従二位に叙せられた藤原光子であった。光子の兄為房を祖とするのが勧修寺流であり、為房の子達の出世の背景には光子の存在が大きかった。
 長子実隆は白河院政末期の大治二年(一一二七)に四九才で死亡した。その時点では兄弟では唯一の正三位中納言であった。翌年には公実の嫡子とされた正三位権中納言通季が三九才で死亡した。そうした中、一六才違いの三条実行と異母弟徳大寺実能の関係が問題となる。
 永久五年(一一一七)に璋子が女御として入内した際の家司に兄弟の中で補任されたのは従四位下右少将であった二二才の実能のみであった。翌元永元年に璋子の中宮職の職員としては、権大夫に通季、権亮に実能が補任され、同二年に誕生した顕仁親王家の職員としては実能のみみえる。一方、保安元年(一一二〇)六月の白河院庁牒に別当として署判しているのは、権中納言であった長子実隆と参議であった通季である。
 これが実隆と通季の死亡により、待賢門院庁牒(大治三年一二月)と鳥羽院庁下文(大治四年一一月)の署判者として三条実行が登場してくる。実行と実能はともに権中納言であったが、一六才の年齢差と位階の差(正三位と従三位)があるので、閑院流関係者の筆頭の位置に実行が署判している。そして鳥羽院庁下文で実行と実能の間に署判しているのが権中納言源雅定である。この順番は三者が頼長が辞職して空席となった左大将の座をめぐって争う保延六年でも変わらなかった。

« 藤原成親3 | トップページ | 三条公教2 »

中世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 藤原成親3 | トップページ | 三条公教2 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ