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2019年5月16日 (木)

三条公教2

 左大将問題で、鳥羽院が雅定を推したのに対して、崇德天皇は閑院流との関係で決定を延ばしていたとされる。三条実行と徳大寺実能がともに希望していたのである。三者ともに正二位権大納言であったが、年長の実行はその地位となって九年目、一四才若い雅定は四年目、さらに二才若い実能は五年目であった。実能は二年前にすでに右大将となっており、当然、自分が左大将に転ずるべきと思っていたと思われる。
 雅定には村上源氏の代表との自負があろう。堀河・鳥羽殷の外戚となって台頭してきた閑院流に対して、村上源氏は後三条天皇以来、政治の中枢にあった。雅定は正二位右大臣兼左大将雅実の子であるが、一三才上の異母兄顕通が本来の後継者で、四一才で正二位大納言に進んだが、その直後に死亡した。このため、顕通の遺児は雅定の養子となり、雅定が村上源氏の代表者となった。兄顕通は三条実行より一才年下であるが、その昇進のスピードは段違いに早かった。閑院流の後継者西園寺通季は三九才で正三位権中納言のまま死亡したが、顕通が正三位権中納言となったのは二五才である。
 崇德天皇が迷う十分な理由はあったが、鳥羽院は天皇に直談判して雅定を左大将に補任した。これが崇德退位のきっかけとなったとするが、一番失望したのは三条実行であろう。自らの嫡子公教と実能の嫡子公能の昇任のスピードにも明らかに差があった。公教が三一才で参議となったのに対して、公能は二四才で参議となっている。違いは璋子の同母兄であるか異母兄であるかであった。『台記』によれば、実行は待賢門院の死後も喪服となることがなく、鳥羽院が実行を不忠の臣と批判したことを告げられて初めて喪に服している。同じ閑院流でも温度差があった。

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