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2019年5月21日 (火)

高階敦政の投身自殺1

 『本朝世紀』仁平三年一二月二九日条によると、先頃前上野守高階敦政法師が近江国へ向かい湖で投身自殺をしたが、その原因となったのは中納言家成が馬寮馬部を敦政の家に派遣して陵辱したことであった。家成の嫡子隆季は保延三年正月以降、左馬頭の地位にあった。さらに、それは家成が舎兄家長と仲が悪かったためであると記している。家成といえば、父家保が同母兄顕保に修理大夫を譲ろうとしたことに反対したことで知られている。本来は顕保が家保の嫡子であった。家保は天承元年一二月二四日に修理大夫に補任され、翌年正月二六日に従三位に叙せられ、長承三年二月二二日に参議に補任された。修理大夫を顕保に譲ろうとしたのはこの時点であろう。しかしそれができないまま、保延二年正月二二日に参議を辞して、外孫花山院忠雅の右近衛権少将補任を実現し、同年八月一四日に五七才で死亡している。忠雅は家保の娘を母としたが、父忠宗を早くに失ったため、家成の家で生活をしていた。
 敦政法師が陵辱された理由が不明であったが、その背後には鳥羽院の意向があったと思われる。『長秋記』大治五年四月二六日条には長実の嫡子顕盛が解官された理由が記されていた。当時顕盛は尾張守であったが、解官されたのは殿上人であろうか。『中右記』同年一〇月五日条によると陪従を辞したことで解官されたことが記されている。『長秋記』には行幸の陪従に闕が生じたので、顕盛と忠隆を起用したところ、顕盛が辞退したことが記されている。この解官は、六月二〇日に顕盛が修理大夫に補任されたことで、解決をみたかにみえたが、一〇月五日には修理大夫に忠隆の父基隆が補任されている。尾張守については一時的に解任されたかどうかは不明であるが、天承元年七月九日には尾張守であることが確認され、長承三年一月二五日に死亡した際にも「尾張守顕盛朝臣」であった。解任の原因となった陪従辞退については、大治五年一一月五日には鳥羽院の日吉行幸の帰京の陪従として顕盛がみえている。

 

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