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2019年5月16日 (木)

三条公教4

 いずれにせよ、得子が体仁親王を産んだ時点で乳母の選定が行われたものである。当然、相当数の乳母が選ばれており、これによって清隆が待賢門院から得子に乗り換えたとの評価は正しくない。清隆の妻を選んだ側は、清隆を永治二年一二月に春宮亮の賞として蔵人頭に補任し、年が明けると正四位下から二階進めて正三位に叙した。
 三条公教の娘が信西入道の子俊憲との間に産んだ子基明が仁安三年(一一六八)二月七日に秀才対策を受け、一二月一三日に六位蔵人に補任されている。叙爵していないことから一〇才前後と考えられ、両家の間で婚姻関係が結ばれたのは保元の乱後であろう。基明の子範宗は一一七一年の生まれで、寿永二年(一一八三)八月二〇日に一三才で蔵人に補任され、一六日に叙爵している。
 公教には実綱と実国の二人の息子がいたが、四五才時に藤原清隆の娘との間に実房が生まれると、これが嫡子とされた。一四才で従三位蔵人頭=公卿となったが、庶兄実国が公卿となったのは二〇才、実房より八才年上の徳大寺実行が公卿となったのは一八才であった。三条家の初代実行とその子公教は待賢門院の同母兄弟である西園寺、徳大寺氏に比して昇進が遅く、正四位下蔵人頭となったのは二九才であったが、その後、鳥羽院、さらには美福門院との関係を強めたことで登用され、近衛天皇の死亡に伴う会議には閑院流で唯一参加した。そして公教の嫡子実房は西園寺・徳大寺両家の当主より昇進のスピードを早め、三家の力関係は逆転した。 

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