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2019年5月10日 (金)

藤原信頼3

 陸奥守基成の後任である甥隆親は仁平三年閏一二月二九日の補任時点で一〇才前後と考えられる。祖父忠隆は久安六年八月三日に死亡しており、母方の祖父忠盛も仁平三年一月一五日に死亡した中で、叔父である基成が辞職して甥に譲った形で補任が実現した。保元二年五月一八日に内蔵権頭に補任された隆親の後任の陸奥守に信頼の同母弟信説が補任されたのも基成の意図であろう。隆親も叔父信頼の影響下にはなく、永万元年には関白藤原基房のもとで播磨守に補任されている。忠隆の娘が忠通の嫡子基実の妻となっているが、これも忠隆が幼少の子の将来のため、忠通との結びつきを持ったのではないか。子基通が誕生したのは永暦元年であるが、この時点で基実は一八才である。元木氏の説くような、忠通が自らの車の前を横切った信頼の車を破壊して後白河から理不尽な処罰を与えられた保元三年四月以降に、忠通が信頼の妹を嫡子基実の妻(側室ヵ)としたものではなかろう。
 それであるなら、平治元年末の信頼の誅伐によりその妹ならびに翌年生まれた基通の立場は悪化し、基通が基実の後継者とはならなかったのではないか。平治の乱後、忠通が基実の妻として九才の清盛の娘盛子を迎えたのと同様、将来を見越してのものであろう。忠隆女子は藤原家成の嫡子隆季にも嫁いでおり、久安四年には嫡子隆房が生まれている、
 以上により、元木氏が信頼と義朝の関係として述べている内容には十分な根拠がないことが明らかである。本来の忠隆の嫡子隆教は待賢門院・崇德との関係が強かったが、信頼は天養元年一月六日に皇后宮(得子)御給で叙爵し、久安二年二月二六日には暲子内親王御給で従五位上に叙せられている。久安六年七月二八日に藤原季行(姝子内親王の乳母夫)と相博して武蔵守に補任され、仁平二年正月二八日には右兵衛佐を兼ねた。

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