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2019年5月31日 (金)

二つの補足

 「一二世紀後半以降の石見国司」の記事で、富永恵美子氏が説かれた、養和元年(一一八一)一一月二日の時点で石見国が皇嘉門院の分国との説を採用しなかった。三日後の五日の『吉記」の記事では「石見守能頼」(一一七八年八月二四日以降現任が確認できる)がみえており、その結論は変わらないが、「作事石見、大進季広奉行之」として石見と大進を切り離した解釈には無理があった。
 偶々、二通の仁安三年一一月三〇日源実房をみて(『愚昧記』)、気づいた。一通は「亜丞」と署名し、宛名は「石見大進」である。もう一通では「実房」と署名し、宛名は「中宮大進」である。ともに法成寺八講に関するものであるが、後者は中宮(育子)大進藤原光長に充てたものである。これに対して前者は皇太后権大進であった季広に充てたものであろう。「石見」大進とは、季広の父季兼が石見守を務めたことがあることによるものであろう。『吉記』の石見大進(季広)も同様な表記であろう。
 季広は久寿二年一二月二五日に中宮(呈子)少進に補任された。同日には藤原邦綱が中宮権大進に補任されている。次いで松殿基房が保元元年八月二九日に元服すると、その職事となり。基房の子家房の乳母父となった。治承三年一〇月二五日には従三位、権中納言、正三位とあいついで叙位・補任された基房の嫡子師家が拝賀を行っているが、隠岐守藤原惟頼とともに前駈をつとめている。
 藤原惟頼は仁安元年八月二七日に初任の受領として丹波守に補任されているが、その除目の記録(『山槐記除目部類』)には「此所欲書伯耆、摂政被仰可書丹波之由、殊御芳志也」との注記がある。当初の案では惟頼は伯耆守に補任される予定であったが、摂政基房の芳志により丹波守に変更された。当然、基房が丹波国知行国主である。五味文彦氏が『顕広王記』に基づき、丹波守惟頼と相模守藤原盛頼の間で相博が行われたとし、惟頼は知行国主藤原顕時のもとで丹波守となり、その後相模守に遷任したとされたが、惟頼は相模守になっておらず、顕時との関係も確認できない。前述の師家拝賀の前駈を惟頼が勤めていることなからも、惟頼は基房の家臣であった。五味氏が指摘された仁平元年二月の近江と淡路の相博も、近江守源成雅から淡路守平教盛と国主忠実のもとの国守は変わっている。丹波と相模の相博も国主レベルであろう。
 忠通が基実ではなく基房を後継者と考えていたとの樋口氏の説もあるが、平氏のクーデタで失脚し、その後、一時的に源義仲と結んで表舞台に帰り咲いたかにみえたが、義仲の失脚により、松殿家は摂関家の一翼を担う地位から脱落した。惟頼は季広とその子長俊とともに、養和元年には九条兼実の家司となった。

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