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2019年5月10日 (金)

藤原信頼4

 このように得子との関係で昇進してきたが、その昇進が加速するのは保元の乱後の保元二年から三年にかけてである。その背景が後白河天皇の寵愛であった。保元二年五月二八日に武蔵守の任期が切れると、自らの知行国として獲得し、わずか三ヶ月前に陸奥守に補任されたばかりの同母弟信説を武蔵守に遷任させている。陸奥守の後任には祖父基隆の弟雅隆が補任されたが、一年もたたないうちに死亡し、保元三年八月一日、その跡に雅隆の甥にあたる村上源氏源雅綱の子国雅が肥後守から遷任して補任された。陸奥国は藤原基隆・忠隆父子の関係者が継続して国守となっているが、武蔵国と異なり信頼の知行国ではない。元木氏は『保元・平治の乱を読みなおす』では陸奥国は一族の知行国(これも意味不明)としていたが、『河内源氏』では信頼の知行国としていた。
 保元二年一〇月二二日、国司等の貴族が造営を分担している内裏について勧賞が行われたが、陸奥国については翌年五月六日に、陸奥守藤原雅隆ではなく、信頼への賞として従三位叙任がなされている。前年の従四位上と正四位下の叙任も父忠隆が圓城寺造営の功によるものであり、理由は何でもありの昇進である。そして保元三年八月一〇日に父忠隆八幡造営賞による正三位叙任と権中納言への補任が行われた。
 翌保元三年八月一一日に皇太子守仁への譲位が行われ、一二月二〇日までに即位の儀式が完了したが、正三位権大納言からの新たな叙位と補任は困難となった。一一月八日に検非違使別当、二六日には左兵衛督から右衛門督に転じたのが最後となった。検非違使別当については、翌年三月には辞任し、叔父藤原光頼と交替している。『平治物語』が記す「左大将」を希望したかは不明だが、保元の乱後は信西入道の子が蔵人頭、参議などの重要ポストに次々と補任され、新たなライバルが増加し、旧来の勢力の地位は低下しつつあった。古澤氏の論文では、従来からの通説であったとしつつ、以上の点が平治の乱の原因であったとする。元木氏は信頼がクーデターに加担した人々と目指したのは二条親政であるとするが、古澤氏が説くように、信西とその関係者を排除することが目的であった。
 

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