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2019年5月12日 (日)

隠岐国知行国主源光保

 光保は摂津源氏頼光流に属する美濃源氏光国の子であるが、その娘が鳥羽院の寵愛を受けたことで、中央での地位を上昇させた。久寿元年正月二三日に出雲守に補任されるが、保元三年四月二日には平範家の子基親が出雲守に、光保の嫡子光宗が伯耆守に補任されている。光保は出雲守を辞して子を伯耆守にすることにより、伯耆国知行国主の地位を得たと思われる。
 系図では光宗について伯耆守とともに備後守であったことを記すものがある。また、平治物語の諸本の中には、平治元年一二月に藤原信頼と源義朝を中心とするクーデターが成功した際に、光保が隠岐国を与えられたことを記しているものがある。この点を整合的に解釈したい。
 備後守については、仁平二年九月九日に藤原家成の子家明が補任されている。家明は保元元年一二月二九日に備後守を重任し、二年四月二四日に内蔵頭に補任された際には、左近衛少将は去任しているが、備後守は兼任のままであった。公卿補任では永暦元年正月二一日に播磨守に補任されたことが記されているのみで、この時点で備後守から遷任したとの解釈が可能である。ただ、そうすると光宗が備後守に補任される余地がなくなるので、それ備後守が光宗に交替していなければならない。
 そこで注目されるのが、出雲守基親が平治元年閏五月二八日に伯耆守に遷任していることである。この時に伯耆守光宗が備後守に遷任したのであろう。ただし除目がどのようになされたかを示す史料が残って居らず、公卿補任により基親の経歴のみ知る事ができる。そして、同年末に光保が隠岐国を与えられたことが問題となる。光保は当初は信頼・義朝に協力していたが、二条天皇を内裏から六波羅の平清盛のもとに脱出させ、逆賊となった信頼・義朝を鎮圧することに成功した。光保は本来二条天皇派であったが、藤原信西とその子が朝廷内の重要ポストに多数登用される中、信頼らによる信西一派排除に協力した。それが成功すると、両者を切り捨てた形となった。光保が隠岐国を与えられたという年末の除目は継続したと思われる。源頼政もその除目で伊豆国を与えられ、以後、以仁王の挙兵まで伊豆国を支配している。
 二条天皇の外戚藤原経宗と藤原惟方の二人は、乱後後白河院への圧力をかけ続けた反発を受け、二月二〇日に院の命を受けた平清盛の家臣により逮捕され、二八日に解官となり、翌月には配流された。これに続いて六月には光保・光宗父子が院の暗殺を謀った罪で逮捕され、配流先の薩摩国で殺害された。
 光保が隠岐国知行国主となった際の隠岐守については不明である。備後守から光宗が遷任したのではなく、光保が備後国に加えて隠岐国を知行国としたものであろう。永暦元年六月二〇日に藤原光隆の子雅隆が備後守に補任されているが、これが光宗解官に伴うものであろう。前述のように、藤原家明は正月の時点で播磨守に補任されている。同時に知行国主光保の失脚に伴う隠岐守補任も行われたであろうが、現時点では具体的名前は不明である。

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