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2019年5月15日 (水)

藤原成親2

 隆季の一才下の同母弟家明は、崇德天皇の末に一四才で従五位上左少将になったが、それ以降は得子の子暲子内親王(八条院)御給で叙位されているが、昇進のスピードはそれほど早くはない。これに対して同母弟成親の場合は、蔵人に補任され叙爵した五才時に崇德天皇の退位となった。仁平二年正月には父家成が左衛門督を辞して成親が侍従に補任されたことについて、元木氏は父の寵愛を示唆するものと記すが、そうでもしなければ中央のポストに補任されなかったことが重要であろう。
 成親の昇進が加速するのは保元の乱後であるが、父家成はすでに死亡しており、後白河天皇とその寵愛を受ける藤原信頼との関係を深めたのであろう。保元四年正月には信頼の譲りによって殿上人として最上位となる正四位下に二二才で叙せられたが、平治の乱との関わりにより一旦、解官された。二年後に還任した直後に再び解官されたが、五年後に還任すると後白河院の寵愛のもと例のないスピードで昇進している。その前年に二条天皇が死亡したことがそれを可能としたものであろう。元木氏は成親が蔵人頭と参議に補任されたことはその優れた実務能力を示すとされるが、これに対しては、信頼への同様の評価に対して、古沢氏が実際に在職したのは短期間であったとして元木氏を批判しているのと同様のことが言えよう。成親は蔵人頭には二ヶ月、参議にも六ヶ月在職したのみで権中納言に進んでいる。
 成親など平治の乱で信頼とともにクーデターに参加した公家は、保元の乱後急速に要職に補任され昇進する信西とその子達を除こうとしたが、平治の乱後急速に要職を占めたのは平清盛とその一門であった。その不満を利用したのが後白河院であった。とりあえずはここまでとするが、元木氏の分析にはここでも偏りがみられ、もう少し幅広い情報に基づき分析する必要があると痛切に感じた。

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