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2019年5月11日 (土)

源雅国3

 久安五年一一月八日には石見国司重任符について了承されている。雅国は鳥羽院、高陽院司として様々な行事で重要な役割を果たしていたが、国保の石見守重任以降、忠実の後継者をめぐる忠通と頼長の対立が深刻さを益していく。忠通には一一人の息子がいるが、三男が早世して一六年目の康治二年(一一四三)に四男基実が誕生した。長男と次男は後見する母方の家格の関係か、僧侶になっており、一度は父忠実の意向を尊重して二三歳年下の弟頼長を養子として後継者としていた。忠通は基実が六歳となった久安四年には頼長との養子縁組を解消し、基実を後継者とした。
 久安六年には一二歳の近衛天皇が元服したため、頼長が養女多子を入内後立后した。多子は徳大寺実能の嫡子公能の娘であったが、同母姉幸子が八歳年少の頼長の正室となっていた関係で、頼長の養女となっていた。頼長と幸子の間には子はなく、頼長の四人の息子は源師俊娘と源信雅娘が母であった。頼長は養女多子の立后で立場の強化を図ったが、一一歳である多子が出産適齢期となるには時間が必要だった。これに対して忠通は、二〇歳の養女呈子の立后を図った。呈子は藤原伊通の娘で、久安四年に美福門院の養女となっていた。伊通の母は美福門院の父長実の同母姉妹(伊通誕生時に長実は一九歳であり、姉であったか妹であったかは微妙だが、いずれにせよ年齢は近い)であった。
 ただし、伊通と美福門院は二四歳も差があり、且つ伊通は大治三年には年長の伯(叔)父とはいえ、参議補任後一年の長実が、同八年の自分より早く権中納言に昇進したこと等に抗議して、しばらく出仕せず籠居生活をしている。実子近衛が聖子と崇德のもとで成長する中で、近衛に入内する候補として、八歳年長の呈子を美福門院が養女にしたのだろう。それを忠通が自らの養女として頼長と対抗したものである。
 結果として両者とも立后され、多子は皇后、呈子は中宮となったが(清少納言が仕える道隆の娘定子が一条天皇の皇后、紫式部が仕える道長の娘彰子が同天皇の中宮となった先例あり)、近衛天皇が忠通の娘である崇德天皇の皇后聖子の養子となっていたため、忠通邸が里内裏となり、呈子が優位となった。このことに激怒した忠実は、忠通を義絶し、頼長を氏長者として財産を譲った。仁平二年一〇月には呈子が懐妊したと思われたが、想像妊娠であったというハプニングも思っているが、これも忠実と頼長のストレスを増したであろう。

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